幼少期の統治とは? わかりやすく解説

幼少期の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:57 UTC 版)

リチャード2世 (イングランド王)」の記事における「幼少期の統治」の解説

1367年エドワード黒太子ジョーン・オブ・ケント夫妻の間に次男としてボルドーにおいて誕生出生地からリチャード・オブ・ボルドーと呼ばれた。兄エドワード1372年7歳で、続いて1376年に父が死去したため祖父からコーンウォール公叙されと共に後嗣指名された。そして翌1377年6月21日祖父死去する10歳王位継承した黒太子には4人の弟がいたが、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープ若死残った3人の弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントケンブリッジ伯(後にヨーク公)エドマンド・オブ・ラングリー、エセックス伯(後にグロスター公トマス・オブ・ウッドストック摂政候補挙げられたが、誰も決まらず貴族たちによる集団指導体制リチャード2世補佐することに決定評議会がその役目担ったが、筆頭選ばれランカスター公発言権強かったリチャード2世治世はこの3人の叔父たちの動向大きく左右されていくことになる。 1378年1380年新政権百年戦争フランス奪われ占領地域の奪還図り大陸へ遠征したが、全く成果が上がらなかった。この遠征による膨大な戦費調達のため人頭税導入を図るが、これは上層軽く下層に重い税制であった1381年6月増税反対する下層階級農民労働者が、エセックス煉瓦ワット・タイラー率いられ反乱を起こすと、ランカスター公屋敷焼き払われ政府幹部だった財務府長官ロバート・ヘイルズ尚書部長官サイモン・サドベリーの2名が殺害され反乱軍ロンドンへ迫る展開になったが、リチャード2世タイラーとの面会応じた6月14日リチャード2世タイラー要求事項回答約束したが、翌15日ロンドン市長面会現れタイラー刺殺し、指導者失った反乱鎮圧された(ワット・タイラーの乱)。自ら危機乗り切ったリチャード2世自信をつけて親政手掛けたが、それは貴族反感を買うことになっていく。

※この「幼少期の統治」の解説は、「リチャード2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「幼少期の統治」を含む「リチャード2世 (イングランド王)」の記事については、「リチャード2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。

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