幼少期の生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「幼少期の生い立ち」の解説
Fは神奈川県茅ヶ崎市内の病院で生まれ、平塚市内で育った。Fは幼少期こそ両親から愛情を注がれて育ったが、幼稚園卒園直前に妹が誕生すると両親は妹ばかりを溺愛するようになった。また横浜地検の冒頭陳述書 (1982) によれば、幼少期から姓の読みをもじった蔑称で侮辱されていたことから「大きくなったら徹底した悪になりひねくれてやる」と考えていた一方、「強い者には弱く、弱い者には強い態度に出る傾向」が強かった。 1967年(昭和42年)4月には平塚市立富士見小学校に入学したが、学校やその近くの店で万引き・喧嘩などの非行を繰り返していた。その一方で、家庭内では母親から「しつけ」と称して押し入れに閉じ込められたり、たばこの火を手に押し付けられたりするなど折檻を受けることがあり、当時の担任教諭たちもFについて「母親からまともな愛情を注がれていないのではないか?」と感じていた。小学校4年生までは女子児童・下級生の男子児童をいじめていたが、小学4年生の時、同級生の女児の頬に鉛筆を突き刺す事件を起こしたことで、同級生たちから決定的に疎外されるようになり、一転していじめを受けるようになった。 富士見小学校卒業後の1973年(昭和48年)4月には平塚市立春日野中学校へ入学したが、直後に同級生の間で「Fを殺す会」が結成されるなど、深刻ないじめを受けるようになった。これに対し、Fは周囲を見返すために周囲からの反対を押し切って空手道場に4か月ほど通い、空手の基本を身に着けている。中学入学後に新聞配達を始め、1年生の時には新聞配達のアルバイトで稼いだ金で果物を買い妹と一緒に食べるなど、心優しい兄としての一面も見せていたが、2年生のころには両親からピアノを買い与えられるなど溺愛されていた妹への嫉妬心から、母親・妹への家庭内暴力を振るうようになった。中学2・3年時代は学校・家庭内とも居場所がない状態で、学業成績は全教科が1評価だった。中学の卒業文集では「将来はお金持ちになってゴテン(御殿)を建てているだろう」と書き記していたほか、寄せ書きに平仮名で「ぼくのことをわすれないでほしい」とも書き記していたが、事件後も小学校時代の同級生の間では極めて印象の薄い存在となっていた。 横浜地検 (1982) は「Fの凶暴性は『子供のいじめ・いたずら』の域を超えたほどのもので、それが年齢を重ねるにつれてエスカレートしたためにかえって周囲の者の結束を招き、Fは一層孤立することとなった」と指摘している。
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