幼少期の修行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
『太平記』流布本巻16「正成首送故郷事」によれば、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死すると、足利尊氏は正成に同情心を抱き、首実検をした後には丁重に正成の妻子に送り返した。覚悟していたこととはいえ、正行は、父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り、父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したと描かれる。この物語の筋書きによれば、正成が正行に託した遺言を生母は思い起こさせ、その遺言の内容は「成長した後には再挙兵し、朝敵を滅ぼし、天皇家の支柱となれ」というようなものであったという。そして、父の遺言と母の教訓を肝に銘じた正行は、武芸の鍛錬に励み、ひたすら打倒尊氏のみを願って幼少期を過ごした、と描かれている。 生駒孝臣は、『太平記』の全てがそのまま事実とは考えられないものの、歴史上における幕府との激戦を考えれば、実際、真面目に研鑽に励む少年時代を送ったとしても想像に難くない、と述べている。一方、上記の物語では、正成と正行が強硬な主戦派であったと描かれている。この点に関しては、岡野友彦は、史料を見る限り、正成と正行は正儀と同様に和平派であったろうと主張している(→近衛経忠の失脚と北畠親房の台頭)。
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