松竹楽劇部から映画界へ
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1919年(大正8年)10月29日、北海道夕張郡夕張町(現在の夕張市)に生まれる。父の進藤誠三郎が鉄道省の技師であり、小学校時代だけでも、道内の釧路市、樺太庁豊原支庁豊栄郡落合町(現在のロシア連邦サハリン州ドリンスク)、東京府豊多摩郡大久保町(現在の東京都新宿区)と転校を繰り返した。1932年(昭和7年)3月、同町の大久保尋常高等小学校(現在の新宿区立大久保小学校)を卒業し、同年4月、当時角筈(現在の新宿区西新宿1丁目6番)にあった精華高等女学校(現在の東海大学付属市原望洋高等学校)に進学する。 同年9月、満13歳の誕生日を目前にして同校を中途退学、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団、第12期生になる。このときの同期44名に対し芸名が公募され、上野恩賜公園の不忍池にちなみ不忍 鏡子と名づけられた。日暮里子、井草鈴子らとともに、東京市内の地名にちなんだ命名を受け、同年10月26日開幕の『グランドレビュー大東京』で揃ってデビューした。不忍の名は「不忍池は鏡の如し」の意だという。デビュー翌年の1933年(昭和8年)6月、水の江瀧子を闘争委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起きている。 1936年(昭和11年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、このとき満16歳であった。同年10月24日に公開された『からくり歌劇』(監督大谷俊夫)に「ホステス」役で端役出演、映画界にデビューする。同撮影所美術部には実兄の進藤誠吾(1913年 - 2003年)が在籍しており、『召集令』(監督渡辺邦男、1935年)等の映画の装置・設計にクレジットされている。その妹であり、不忍にとっては実姉の進藤京子が劇作家の阿木翁助(1912年 - 2002年)と結婚したのは、不忍の日活入社の2か月後、同年8月である。阿木は進藤誠吾の友人であった。進藤家の長男が当時、満洲国(現在の中国東北部)で経済的成功を収め、家族を引き取るという段になり、誠吾が妹たちを内地に置いておくために不忍を自分の会社に入れ、京子を阿木に嫁がせた、という経緯があった。 1938年(昭和13年)6月1日に公開された『茶房の花々』(監督春原政久)では比較的大きな役ではあったが、それ以外は女給役、女中役が多く、同年には松竹楽劇部時代に同期生だった日暮里子が入ってきて、同年8月4日に公開された『楽天公子』では早速杉狂児の相手役を務めており、同年11月3日に公開された『東京千一夜』(監督内田吐夢)でも、まったくの脇ではなく「おかる」役を演じた不忍であったが、「サリー」役を演じた日暮に次ぐ位置であった。ただし同作で内田吐夢と出逢ったことは、不忍にとって、のちのち大きな経験になっている。1940年(昭和15年)2月1日に公開された『沃土萬里』(監督倉田文人)では、風見章子(1921年 - )の友人役として、満州に集団移住した開拓農民、いわゆる「大陸の花嫁」を演じた。同年7月25日に公開された『三女性』(監督清瀬英次郎)に出演したのを最後に、満20歳で日活を退社した。 1941年(昭和16年)3月、映画監督の藤田潤一と結婚した。藤田との縁は、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)の文芸課に義兄の阿木翁助がおり、同社京都撮影所に藤田が在籍しており、藤田は当時、東京撮影所に出張して仕事をしていたことによる。挙式は東京・赤坂の氷川神社で、阿木の上司で文芸課長の竹井諒夫妻を媒酌人として行われた。阿木が書いた原作を藤田が監督した『大いなる感情』は、同年5月8日に公開された。同年12月8日、日本は米国に宣戦布告、第二次世界大戦に突入した。
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