松竹直営館の時代とは? わかりやすく解説

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松竹直営館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:17 UTC 版)

西陣長久座」の記事における「松竹直営館の時代」の解説

1936年昭和11年)、松竹買収直営となって京都長久座改称松竹作品および輸入映画洋画)の二番館位置づけられ、封切作品1週遅れの上映を行った小説五番町夕霧楼』で知られる水上勉が、回想記『わが女ひとの記』(1983年)で戦前の「西陣京極」の映画館について言及しており、「長久座は松竹昭和館新興キネマ西陣キネマ大都映画である」と述べているが、これは、この時代の同館を指している。『枕草子研究知られる田中重太郎1917年 - 1987年)が学生であった1930年代には、西陣京極にある同館や西陣八千代館といった映画館映画を観たという。翌1937年昭和12年11月1日からはニュース映画館に転向、このとき、東宝映画封切館であった西陣昭和館松竹直営封切館になっている1940年昭和15年)には大都映画および全勝キネマの上映館になった1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版によれば、同館の興行系統は「時・文」(記録映画文化映画)であると記されている。当時の同館の経営ひきつづき松竹支配人浅倉正雄、観客定員数は354名、所在地も「千本通一条下ル」と記載されている。時期不明であるが、鉄筋コンクリート造二階建建替えられ、席数が増えている。当時西陣地域映画館は、松竹経営する同館および昭和館京都土地興行経営する千本座および西陣帝国館大映経営する新興映画劇場(のちの西陣大映中立売通千本東入ル)、従来からの西陣キネマ西陣京極町経営佐々木菊之助)、堀川文化映画劇場東堀川通長者町33番地経営五十彦一)、それに千船映画劇場千本通鞍馬口下ル、経営原田喜盛)、富貴映画劇場大宮通寺ノ内下ル、1942年から大鉄映画劇場経営大阪鉄道)、と同館を含めて9館が存在した

※この「松竹直営館の時代」の解説は、「西陣長久座」の解説の一部です。
「松竹直営館の時代」を含む「西陣長久座」の記事については、「西陣長久座」の概要を参照ください。

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