レビュー全盛期とは? わかりやすく解説

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レビュー全盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:27 UTC 版)

松竹歌劇団」の記事における「レビュー全盛期」の解説

1930年第1期生の水の江瀧子少女歌劇生徒としてはじめ男性風に断髪し、以後男装の麗人」として人気急上昇するレビュー人気が高まる一方いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容指導通達受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』脚色した奪われ我が愛しの妻よをもって来日中のタイ国王ラーマ7世台覧供され社会的信用高めた楽劇部長である蒲生右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部東京名物といわれる一大劇団となり、本拠浅草松竹座のみならず歌舞伎座東京劇場等でも優秀な興行成績挙げた1932年10月東京進出を図る宝塚少女歌劇新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹築地川はさんだ対岸東京劇場大作『らぶ・ぱれいど』を上演築地川両岸松竹宝塚による集客競争通称レビュー合戦」がはじまった両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され、この争い宝塚東京における新拠点東京宝塚劇場へ移るまで続いた。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた1933年6月楽団員による待遇改善要求端を発し水の江瀧子組織委員長とする労働争議通称桃色争議」が起こる。翌月妥結後に蒲生右衛門退陣従来松竹座チェーン傘下にあった松竹少女歌劇部は、松竹本社直属松竹少女歌劇団となり、同時に附属団員養成機関松竹少女歌劇学校」が設立された。争議首班水の江は一時謹慎させられたが、10月末の『タンゴ・ローザ』から復帰同作松竹歌劇はじまって以来大ヒットとなり、はじめて全団員擁して関西公演を行うなど、計160回公演という当時少女歌劇における最高記録つくった。さらに人気増幅させた松竹少女歌劇は、1934年9月より本拠地浅草松竹座から新宿第一劇場移した東京宝塚劇場出現以来松竹少女歌劇積極攻勢図り、『タンゴ・ローザ』以降関西中国九州各地方へも巡業先輩格の大阪松竹本拠地押し込める形になりつつも、全国的人気を獲得した。このころ松竹少女歌劇水の江瀧子オリエ津阪二枚看板としていたが、とくに「ターキー」の愛称知られるようになった水の江は、「レビュー空前人気独占し」、「ターキー時代現出している」と評されるほどの高い人気誇った。またスタッフでは演出青山杉作振付青山圭男装置の三林亮太郎を三本柱として、「レビュー王様」とも呼ばれた名演出家白井鐵造擁する宝塚互角争い演じた当時は各スター私設後援会林立し会員2万人を擁した水の江会」を筆頭に、各後援会競い合ってスターに声援送り舞台へテープ花束投げ、またスターもこれに呼応して劇場内は異常な興奮状態を示していた。しかし1937年定員3600人を誇りマンモス劇場」とも呼ばれた新本拠地・国際劇場開場されると、その巨大さゆえに従来松竹少女歌劇支えたスターファンとの間の交歓」という魅力失われていくことになる。 国際劇場正面入口 国際劇場俯瞰全体像

※この「レビュー全盛期」の解説は、「松竹歌劇団」の解説の一部です。
「レビュー全盛期」を含む「松竹歌劇団」の記事については、「松竹歌劇団」の概要を参照ください。

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