レビュー全盛期
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1930年、第1期生の水の江瀧子が少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪し、以後「男装の麗人」として人気が急上昇する。レビュー人気が高まる一方、いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容の指導通達も受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』を脚色した『奪われし我が愛しの妻よ』をもって、来日中のタイ国王・ラーマ7世の台覧に供され、社会的信用を高めた。楽劇部長である蒲生重右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部は東京名物といわれる一大劇団となり、本拠の浅草松竹座のみならず、歌舞伎座、東京劇場等でも優秀な興行成績を挙げた。 1932年10月、東京進出を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹も築地川をはさんだ対岸の東京劇場で大作『らぶ・ぱれいど』を上演。築地川両岸で松竹と宝塚による集客競争・通称「レビュー合戦」がはじまった。両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され、この争いは宝塚が東京における新拠点・東京宝塚劇場へ移るまで続いた。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた。 1933年6月、楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起こる。翌月の妥結後に蒲生重右衛門は退陣、従来松竹座チェーンの傘下にあった松竹少女歌劇部は、松竹本社直属の松竹少女歌劇団となり、同時に附属の団員養成機関「松竹少女歌劇学校」が設立された。争議首班の水の江は一時謹慎させられたが、10月末の『タンゴ・ローザ』から復帰。同作は松竹歌劇はじまって以来の大ヒットとなり、はじめて全団員を擁しての関西公演を行うなど、計160回公演という当時の少女歌劇における最高記録をつくった。さらに人気を増幅させた松竹少女歌劇は、1934年9月より本拠地を浅草松竹座から新宿第一劇場に移した。 東京宝塚劇場の出現以来、松竹少女歌劇は積極攻勢を図り、『タンゴ・ローザ』以降は関西、中国、九州各地方へも巡業、先輩格の大阪松竹を本拠地に押し込める形になりつつも、全国的人気を獲得した。このころの松竹少女歌劇は水の江瀧子とオリエ津阪を二枚看板としていたが、とくに「ターキー」の愛称で知られるようになった水の江は、「レビュー界空前の人気を独占し」、「ターキー時代を現出している」と評されるほどの高い人気を誇った。またスタッフでは演出の青山杉作、振付の青山圭男、装置の三林亮太郎を三本柱として、「レビューの王様」とも呼ばれた名演出家・白井鐵造を擁する宝塚と互角の争いを演じた。 当時は各スターの私設後援会が林立し、会員2万人を擁した「水の江会」を筆頭に、各後援会が競い合ってスターに声援を送り、舞台へテープや花束を投げ、またスターもこれに呼応して、劇場内は異常な興奮状態を示していた。しかし1937年、定員3600人を誇り「マンモス劇場」とも呼ばれた新本拠地・国際劇場が開場されると、その巨大さゆえに従来の松竹少女歌劇を支えた「スターとファンとの間の交歓」という魅力は失われていくことになる。 国際劇場正面入口 国際劇場の俯瞰全体像
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