レビュー劇団としての終焉
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「松竹歌劇団」の記事における「レビュー劇団としての終焉」の解説
1960年代半ば以降、松竹歌劇は娯楽の多様化とミュージカルの人気に押されて低迷をはじめる。座付作家の不在により過去の作品に何度も頼ってのマンネリ化もみられはじめた。1960年代には宝塚歌劇も東京での観客数が伸び悩み、東京宝塚劇場の稼働を通年から7カ月に縮小していたが、1974年にミュージカル『ベルサイユのばら』でブームを起こし、勢いを盛り返すことに成功する。 松竹歌劇においても団員は自主的にミュージカルに取り組もうとしていた。1970年に団内で結成された「SKD・ドラマ・グループ」がそれである。演劇界にミュージカル・ブームが起こるなか、団員の間でもこれを上演したいという希望が高まり、会社が「演技力付与と向上」を目的に後援したものだった。しかし公演回数は多くなく、第1回試演『恋伝授手習鑑』は同年の『秋のおどり』の休演日に行われ、これを含めた1977年までの公演は、『11人囃子』(1974年、試演1日)、『女だけのイヨネスコ』(1975年、公演3日)、『女だけのカモレッティ』(1977年、公演4日)の4作品9日間で、作品傾向も難解なものばかりだった。 1979年、松竹歌劇は脚本・演出に映画監督の山田洋次を迎え、ミュージカル作品『カルメン』を上演して新機軸を試み、さらに1980年には森喜朗を理事長とする「上演実行委員会」が結成され、文化庁後援のもとミュージカル『銀河鉄道999 in SKD』を上演したが、1982年4月の『東京踊り』を最後に、まず国際劇場が閉鎖される。最後の本拠地公演は約4000人の観客を集めた。また、同年にはソビエト連邦と東ドイツで長期公演を行ったが、従来旺盛に行っていた海外公演もこれが最後の例となった。 以後は東京都内や地方劇場で公演を行ったが赤字が続き、1989年3月、全団員が招集された場で、親会社の松竹土地興行より「翌年3月以降、2年間の公演中止」と「ミュージカル劇団への転換」が通達された。翌1990年2月25日、2500人で満員となった東京厚生年金会館において最後の『東京踊り』が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打った。この公演には76人が参加したが、終演後に11人が退団した。
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