レビュー劇団としての終焉とは? わかりやすく解説

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レビュー劇団としての終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:27 UTC 版)

松竹歌劇団」の記事における「レビュー劇団としての終焉」の解説

1960年代半ば以降松竹歌劇娯楽多様化ミュージカル人気押され低迷をはじめる。座付作家不在により過去の作品何度も頼ってマンネリ化もみられはじめた1960年代には宝塚歌劇東京での観客数伸び悩み東京宝塚劇場稼働通年から7カ月縮小していたが、1974年ミュージカルベルサイユのばら』でブーム起こし勢い盛り返すことに成功する松竹歌劇においても団員自主的にミュージカル取り組もうとしていた。1970年に団内で結成された「SKD・ドラマ・グループ」がそれである。演劇界にミュージカル・ブームが起こるなか、団員の間でもこれを上演したいという希望高まり会社が「演技力付与と向上」を目的後援したのだった。しかし公演回数多くなく、第1回試演恋伝授手習鑑』は同年の『秋のおどり』の休演日に行われ、これを含めた1977年までの公演は、『11囃子』(1974年試演1日)、『女だけのイヨネスコ』(1975年公演3日)、『女だけのカモレッティ』(1977年公演4日)の4作品9日間で、作品傾向難解なものばかりだった。 1979年松竹歌劇脚本・演出映画監督山田洋次迎えミュージカル作品カルメン』を上演して新機軸試み、さらに1980年には森喜朗理事長とする「上演実行委員会」が結成され文化庁後援のもとミュージカル銀河鉄道999 in SKD』を上演したが、1982年4月の『東京踊り』を最後に、まず国際劇場閉鎖される最後本拠地公演は約4000人の観客集めたまた、同年にはソビエト連邦東ドイツ長期公演行ったが、従来旺盛行っていた海外公演もこれが最後の例となった以後東京都内地方劇場公演行った赤字続き1989年3月、全団員招集された場で、親会社松竹土地興行より「翌年3月以降2年間の公演中止」と「ミュージカル劇団へ転換」が通達された。翌1990年2月25日2500人で満員となった東京厚生年金会館において最後の『東京踊り』が上演されこれをもってレビュー劇団としての歴史終止符打った。この公演には76人が参加したが、終演後に11人が退団した

※この「レビュー劇団としての終焉」の解説は、「松竹歌劇団」の解説の一部です。
「レビュー劇団としての終焉」を含む「松竹歌劇団」の記事については、「松竹歌劇団」の概要を参照ください。

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