ブリテン王説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 06:12 UTC 版)
モンマスのジョフリーは彼の著書『ブリテン列王伝』Historia Regum Britanniaeにコール王をアスクレピオドトス王に続くブリトンの王であると記した。ウェールズの時代史には、彼の名はシール・ヘン・ゴドヘボグであると書かれている。可能性のある二人の名を合成したものであろう。モンマスの記すところでは、シールはディオクレティアヌスの虐殺へのアスクレピオドトスの対応に怒りを覚え、彼が公爵に叙せられていたキールコリム(コルチェスター)公爵領で反乱を起こした。彼は戦闘の中でアスクレピオドトスと相まみえ、彼を殺した。そうしてブリテンの王位を奪ったのだった。ローマはブリテンに新たな王が立ったことに脅威を感じたらしく、元老院議員コンスタンティウス・クロルスを使節としてシールに送った。ローマ人の恐怖、シールはコンスタンティウスに面会し、彼がブリテン王に留まることを認める間は、供物を納めローマ法に従うことに同意した。コンスタンティウスはこれらの条件を認めたが、しかしその一ヶ月後シールは歿する。コンスタンティウスはシールの娘ヘレナを娶り、彼自身の手でヘレナをシールの世継ぎとして戴冠させた。ヘレナは後に一子をもうけ、その子は長じてコンスタンティヌス大帝となるのであった。なお、ブリテン列王伝は歴史的に正確ではないと考えられていることに注意されたい。
※この「ブリテン王説」の解説は、「コオル老王」の解説の一部です。
「ブリテン王説」を含む「コオル老王」の記事については、「コオル老王」の概要を参照ください。
- ブリテン王説のページへのリンク