ブリテン諸島への遠征とフランスへの回帰
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「アンジュー帝国」の記事における「ブリテン諸島への遠征とフランスへの回帰」の解説
ジョンはノルマンディーとアンジューの支配が弱まるのに対して、ブリテン諸島の支配は確実にした。ジョンは1208年に南ウェールズへ、1209年にスコティッシュ・ボーダーズ(スコットランド辺境)へ、1210年にアイルランドへ、1211年に北ウェールズへ遠征した。これらの遠征はおおむね成功を収めた。ジョンは全財産を駆使してフランス遠征に必要な資金を集めた。ユダヤ人への臨時(追加的)課税は収入をもたらしたが、他方、教会の土地を全部差し押さえたことでジョンは教皇インノケンティウス3世に破門されることになった。 1212年にジョンはフランスへの侵攻に着手したが、ウェールズでの反乱が計画を遅らせ、しかもイングランドでの有力貴族(バロン)の反乱が更に悪化させた。フィリップ2世もこの時にイングランドへの遠征を企てたが、その軍隊がダムに停泊中にソールズベリー伯ウィリアム・ド・ロンゲペー(長剣のウィリアム)によって壊滅せしめられた。この報を聞いたジョンは全軍をポワトゥーに向けて出港するよう命じた。ジョンは1214年にラ・ロシェルに上陸してブローニュ伯ルノー1世、フランドル伯フェラン、甥に当たる神聖ローマ皇帝オットー4世と連携した。ジョンの同盟者達はフランス北部を攻撃して、ジョンは南部を攻撃することになった。ジョンはガスコーニュに向かい、アジャンに兵を駐屯させようとしたが追い返された。ノルマンディーとは異なり、フィリップ2世は忠誠を転換したポワトゥー地方に侵攻出来ないでいた。ロンドンからパリへ向かうには、南部経由よりもノルマンディー経由の方が容易であった。このようなことからフィリップ2世は自らの努力をノルマンディーに集中させた。 剣は2つの方向に振るわれた。フィリップ2世にとっては、ノルマンディーから容易にイングランドに侵攻できるということ。その結果ポワトゥーが強力な王の存在感のない地域として残された。ジョンは、リュジニャン家にサントンジュ、オレロン島を与え、更にトゥールーズとアンジューも将来譲渡する可能性を見せた見返りとして、娘のジョーンをリュジニャンの息子ユーグ10世と婚約させた。これらはリュジニャン家の莫大な収穫物となったが、ジョンはこれを「服属させた」と言った。 当時はピエール1世がブルターニュ公となっていた。ピエール1世はフランス王に忠実ではあったが、そのブルターニュへの支配の主張は極めて弱いものだった。どちらかと言えば死んだアルテュールの姉アリエノールの方がブルターニュを強く要求していた。ジョンはアリエノールを捕えて、ピエール1世への脅しとして使う一方で、ピエール1世に対してはリッチモンドを提供することで誘惑した。ピエールは忠誠先を変えるのを拒否し、兄のドルー伯ロベール3世がナント付近で捕えられてもその立場は変わらなかった。 ジョンはアンジェに入り、ロッシュ=オ=モワーヌで新造された城を占領した。しかし王太子ルイが軍隊を率いてシノンから駆けつけたため、ジョンは退却を余儀なくされた。これらの失敗にもかかわらず、ジョンは少なくともカペー家の軍隊を分散化させるという点で同盟者の仕事を容易にするという最低の仕事は成し遂げた。そしてブーヴィーヌの戦いが起こり、彼の同盟者は全てフィリップ2世に撃破された。 フランドル伯フェランは捕えられて投獄された。 オットー4世は危うく捕虜になりかけるところで逃げられた。しかしドイツにおけるオットー4世の立場は弱まり、ハインリヒ6世の息子であるフリードリヒ2世に帝位を奪われた(フリードリヒ2世はフィリップ2世と同盟していた)。以後は帝位を取り戻せず、1218年に没した。 ブローニュ伯ルノー・ド・ランマルタンは獄中で衰弱して自殺した。 ウィリアム・ド・ロンゲペーは直接イングランド軍を指揮していたが捕虜となり、後にロベール3世と交換された(ロベール3世の父ロベール2世はこの戦いに加わっていた)。 ジョンの威信は地に堕ち、イングランドの経済は破産し、失敗した略奪者として見られるようになった。彼が集めることの出来た資金のすべてそして権力の全ては無に帰し、彼の同盟者はすべて死ぬか、捕えられるかした。
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