"臆病野州"の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/18 22:41 UTC 版)
尼子経久の隠居後、経久の孫である尼子詮久(後の晴久)が尼子氏当主となった。詮久は毛利元就が尼子氏を離反し大内氏に従属したことに激怒。天文8年(1539年)11月に、毛利氏本拠である安芸国吉田郡山城への遠征を翌年に行うと決定した。久幸は経久とともに無謀な計画に反対したが、血気にはやる詮久は聞く耳など持たず、久幸を「臆病野州」(野州とは下野国の別称であり、下野守であった久幸のこと)と罵った。 久幸は胸の内に暗いものを持ちながらも夏の第一次遠征に従軍したが宍戸元源により道を塞がれ撤退。その後、秋から冬にかけての第二次遠征にも従軍して、吉田郡山城を攻囲する。しかし、戦況が尼子方不利のまま、大内氏の援軍が毛利氏救援に到着し、その不利は決定的なものとなった。 天文10年(1541年)1月13日に行われた戦いで、大内勢の猛攻が尼子詮久の身辺に及ぶにつき、久幸は「臆病野州の最期を見よ」と手勢500を率いて敵中に突撃し、数十人討ち取ったが、物見に来ていた毛利家臣・中原善左衛門の放った矢を額に受けて落馬し、ついに見事な最期を遂げた。 以上が軍紀物に記される久幸の最後である。ただし、近年の研究により、天文8年11月に月山富田城にて評定が行なわれたという一連の話は毛利氏による脚色とされる(詳細は吉田郡山城の戦い#背景を参照)。
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