第二次院政とは? わかりやすく解説

第二次院政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:00 UTC 版)

霊元天皇」の記事における「第二次院政」の解説

宝永6年12月17日1710年)、9歳中御門天皇に位を譲り院政開始していた東山上皇疱瘡急逝し霊元上皇院政再開された。 しかし、近衛基熙綱吉のあとを継いだ将軍徳川家宣岳父であり、霊元融和的にならざるを得なかった。基熙の子摂政近衛家熙宝永7年12月太政大臣としたほか、正徳2年1712年8月、家熙の娘である尚子中御門天皇女御にすることを許し享保元年1716年)には女御として入内させている。 私生活では、60歳過ぎて中臈松室敦子らとの間に子女儲けているが、その一方で東山上皇続いて京極宮文仁親王にも先立たれ准后松木宗子正徳元年1711年10月突如仙洞御所去って出家果たした江戸幕府と関係を結んで霊元東山とも一時的に権力争った女に対す朝廷待遇冷たく出家から2か月後に女院称号を贈ることになったが、女院号については宗子出家後の法名そのまま転用した「敬法門院」とした。 正徳2年10月徳川家宣急逝すると、幼君権威強化するため、幕府朝廷権威にすがろうとした。霊元幕府要請応じ後継者である鍋松のために「家継」の名を与えた。更に正徳4年1714年4月徳川家康回忌には、自筆経文下賜している。9月には皇女八十宮吉内親王家継婚約実現させたが、こちらは家継死去のために実現しなかった。こうして霊元近衛家への厚遇幕府との連携転じたことで、近衛家幕府の不満は和らいでいった。 しかし霊元自身近衛家対す憎悪残っており、享保17年1732年2月書かれ下御霊神社奉納され自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた私曲邪佞悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熙の孫に当たる当時関白近衛家久指したものと見られている。 正徳3年1713年8月落飾して法皇となる。法名は素浄。これ以降天皇法皇になった例は無く最後法皇となった享保2年1717年)、幼年理由行われてこなかった(霊元上皇法皇代わりに行って来た)中御門天皇四方拝実施と共に院政終了する享保17年1732年8月6日崩御宝算78

※この「第二次院政」の解説は、「霊元天皇」の解説の一部です。
「第二次院政」を含む「霊元天皇」の記事については、「霊元天皇」の概要を参照ください。

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