第二次院政
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宝永6年12月17日(1710年)、9歳の中御門天皇に位を譲り院政を開始していた東山上皇が疱瘡で急逝し、霊元上皇の院政が再開された。 しかし、近衛基熙は綱吉のあとを継いだ将軍徳川家宣の岳父であり、霊元も融和的にならざるを得なかった。基熙の子の摂政近衛家熙を宝永7年12月に太政大臣としたほか、正徳2年(1712年)8月、家熙の娘である尚子を中御門天皇の女御にすることを許し、享保元年(1716年)には女御として入内させている。 私生活では、60歳を過ぎても中臈の松室敦子らとの間に子女を儲けているが、その一方で東山上皇に続いて京極宮文仁親王にも先立たれた准后・松木宗子が正徳元年(1711年)10月に突如仙洞御所を去って出家を果たした。江戸幕府と関係を結んで霊元や東山とも一時的に権力を争った彼女に対する朝廷の待遇は冷たく、出家から2か月後に女院の称号を贈ることになったが、女院号については宗子の出家後の法名をそのまま転用した「敬法門院」とした。 正徳2年10月、徳川家宣が急逝すると、幼君の権威を強化するため、幕府は朝廷の権威にすがろうとした。霊元は幕府の要請に応じ、後継者である鍋松のために「家継」の名を与えた。更に正徳4年(1714年)4月の徳川家康百回忌には、自筆の経文を下賜している。9月には皇女八十宮吉子内親王と家継の婚約を実現させたが、こちらは家継死去のために実現しなかった。こうして霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった。 しかし霊元自身の近衛家に対する憎悪は残っており、享保17年(1732年)2月に書かれ、下御霊神社に奉納された自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた「私曲邪佞の悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熙の孫に当たる当時の関白近衛家久を指したものと見られている。 正徳3年(1713年)8月、落飾して法皇となる。法名は素浄。これ以降、天皇が法皇になった例は無く、最後の法皇となった。 享保2年(1717年)、幼年を理由に行われてこなかった(霊元上皇・法皇が代わりに行って来た)中御門天皇の四方拝実施と共に院政は終了する。 享保17年(1732年)8月6日、崩御、宝算78。
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