師・道順の台頭と入滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
文保2年(1318年)2月26日、持明院統の花園天皇が退位し、大覚寺統の皇太子尊治親王が後醍醐天皇として践祚。後醍醐の父の後宇多上皇が第二次院政を開始した。 文観が新たな師と仰いだ報恩院道順は、後宇多からの寵遇を背景に、急速に地位を高めていった。同年12月29日には僧正、翌文保3年(1319年)1月3日に東寺二長者(真言宗全体の第二位)かつ醍醐寺第57代座主(醍醐寺の長)となり、改元を挟んで、同年元応元年(1319年)9月26日に大僧正に補任された(『東寺長者補任』巻第4)。元亨元年(1321年)3月21日には遂に東寺一長者、つまり東寺の長にして真言宗全体の最高位に登り詰めた(『東寺長者補任』巻第4)。 栄華を極めた道順だが、同じ元亨元年(1321年)12月9日に後宇多は治天の君を辞して政治の場を離れ、後醍醐が親政を開始した。天皇家での代の移り変わりと時を同じくして、同月28日に道順自身も入滅。真言宗の頂点である東寺一長者の座にいたのは一年にも満たなかった。
※この「師・道順の台頭と入滅」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「師・道順の台頭と入滅」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。
- 師・道順の台頭と入滅のページへのリンク