師範学校への入学
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「師範学校への入学」の解説
予備課程(師範予備学校)は三年制であり、卒業生は四年制の師範学校に編入する資格が与えられた。学費を節約するために寮には入らず、平日は町の民家に下宿して、休日はロバで父と実家に戻る生活を送っていた。師範予備学校一年生の時には第一次エチオピア戦争の敗北という衝撃的な事件が起き、学内も騒然となった。この時、ムッソリーニは社会主義者としての植民地戦争への反対よりも、愛国主義者として国家の威信が辱められたことへの憎悪が勝り、学内で行われた戦死者への追想集会では「我々が死者の復讐を果たすのだ!」と演説している。1898年、師範予備学校を修了して師範学校の正規課程に進んだ。 師範学校時代は一定の成績は維持していたものの、以前ほど抜きんでた成績を取ることはなく、教員課程より読書に没頭する日々を送った。相変わらず周囲との交流も嫌って孤独を好み、しばしば師範学校の鐘楼に登って哲学、政治学、歴史学を中心に様々な分野の書物を読んでいた。一方で政治集会が開かれる際には雄弁に持論を語り、説得力ある演説家として一目置かれていた。学内では穏健な世俗派としてイタリア共和党を支持する者が多く、彼らはそれを共和党員を示す黒いネクタイを身に着けていたが、ムッソリーニはより急進的なイタリア社会党の支持者として赤いネクタイを身に着けていた。 師範学校の最終学年では再び好成績を上げるようになり、選考を経て奨学金300リラを学校側から送られるなど優等生として扱われた。校長ヴァルフレードも兄ジョズエに自慢の生徒として紹介し、1901年1月27日にフォルリンポーポリで開かれたジュゼッペ・ヴェルディを追想する市民集会に師範学校代表として演説する機会を与えている。ここでムッソリーニは本来の予定にはなかったイタリア統一の大義と、同時にその理想を実現できない王国政府を非難する政治演説を行い、市民から喝采を浴びている。この演説は話題を集め、イタリア社会党の機関誌『アヴァンティ』にムッソリーニの名前が掲載された小さな記事が載り、最初の政治的名声を得ることになった。 1901年7月8日、ムッソリーニは師範学校を首席卒業し、政府から教員免状を付与された。
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