医師になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 05:27 UTC 版)
蘭学医である生沢良安の三女として1864年(元治元年)に武蔵国榛沢郡深谷宿(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。13歳の時に女性の病気を治療する医師になることを志して、勉強のために上京した。しかし、当時の日本では女性の医師は政府に認められておらず、医学校に入るのも困難だった。目標を女子師範学校への入学に変更し、松本萬年の私塾である止敬塾にて漢文を学んだ。 1882年(明治15年)に東京府病院に見習いとして入る。東京神田にあった東亜医学校が開校され入学した。当時の講師は後に有名になる樫村清徳や森鷗外、片山芳林などがいた。しかし、これらの講師たちが相次いで海外へ留学したため同校はほどなく廃校になった。 1883年には東京府と埼玉県にあいついで医学試験請願書を出すが、いずれも却下された。1884年には済生学舎に入学。同じ時期に、東京慈恵病院医学校の付属病院で高木兼寛から臨床医学の指導を受けた。同年、医学免許規則が改正され女性が受けられるようになるが、その年は過労で倒れており受験できなかった。1885年に前期試験、1886年に後期試験に合格し、1887年に内務省医籍に登録された。
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