眼科医として
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医師国家試験に合格し、1895年6月に内務省の医籍に登録され、晴れて医師となった。その後、故郷である静岡県静岡市に戻り、1896年に岩﨑眼科医院を開業した。住民の健康水準の向上と地域医療の発展のために力を尽くした。なお、医師になるまでの苦難に心を打たれた宮内大臣の土方久元が、開業に際して診療所の扁額を揮毫してくれた。また、開業10周年の際にも、土方から書が寄贈された。開業以来およそ20年間で約50万名の患者を診察しており、博徒の「清水次郎長」こと山本長五郎も患者の一人であった。その傍ら、自活と修養に励み、自療に努めて遂に歩行ができるようになった。この経験から強健修養を重視するようになり、1914年に静岡県安倍郡三保村に三保療園を創設した。 一方、医師としての活動を通じて、我が国の医療には高い専門性を持った人材が求められていると感じていた。しかし、高い専門性を持った医療系の人材は、男女問わず不足していた。また、当時の大日本帝国においては、男性に比べて女性に対する高等教育の場が圧倒的に少なかった。こうした状況下で、女性に高等教育を授けることで、医療現場で活躍できる専門的な人材を育成すべきと考えるようになった。 大正年間、女性に薬学を講じる私立学校を創設し、薬剤師の育成を図ることを決意した。静岡県知事に対して静岡女子薬学校の設置を願い出て、1916年2月に認可された。これを受け、同年4月に静岡女子薬学校が開校した。自らが初代校長に就任すると、自身が運営する岩﨑眼科医院の部屋を教室として提供した。 1919年には、修業者に対して薬剤師検定試験の受験資格が認められることになった。同年3月、第1期生を送り出した。その後、教室が手狭になったことから独立した校舎を設けることになり、1924年に竣工した。これを受け、静岡女子薬学校は、1925年に新校舎に移転した。しかし、癌を患っており、校長在任のまま同年10月9日に死去した。遺骸は静岡県安倍郡大谷村の大正寺に葬られた。 校長を欠いた静岡女子薬学校は一転して廃校の危機に陥るが、翌年12月に篠田恒太郎が第2代校長に就任した。篠田は静岡市立静岡病院薬局長や静岡県衛生技師などを歴任しており、岩﨑の墓石に辞世の歌を揮毫した人物でもある。篠田の尽力により、1930年には1万2500円を投じた新たな本館が竣工している。その後、静岡女子薬学校は、静岡女子薬学専門学校を経て共学化され静岡薬学専門学校となり、静岡県庁に移管され公立化されると静岡県立薬学専門学校となった。さらに、旧制専門学校から新制大学への移行に伴い静岡薬科大学となったが、1980年代に同じく公立大学であった静岡女子大学、静岡女子短期大学と統合され、新たに静岡県立大学が発足した。
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眼科医として
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主に網膜硝子体や緑内障を専門分野としている。 1998年4月〜2000年10月:信州大学医学部附属病院勤務。 2000年11月〜2003年6月:ミシガン大学ケロッグ眼研究所勤務。 2012年1月~現在:大阪赤十字病院に勤務。眼科主任部長。 専門医・認定医など 日本眼科学会眼科専門医・指導医 眼鏡等適合判定医師 臨床研修指導医 眼科PDT講習会受講修了認定医 京都大学医学部臨床教授 難病指定医 緩和ケア研修会修了
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