築地病院(健康社)の歴史
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ロバート・デイヴィッドスン宣教師の日本語教師で後に日本基督教会の牧師として活躍した三浦徹の南小田原町3丁目の持ち家で開業し、翌年南小田原町4丁目に移転した。施療棟と入院棟を持ち、医学生の養成も行う、当時最新の西洋医学の病院であった。スコットランド一致長老教会海外伝道局は、開業にあたり600ポンドを出資した、キリスト教系の病院である。ミッションの宣教目的のために医療費は無料だったので、民間には大盛況で年間の来院者は14000人ほどになった。 イギリス・スコットランド一致長老教会の医療宣教師ヘンリー・フォールズが医師として就任した。フォールズは外科医、眼科医として活躍した。フォールズはグラスゴー医科大学の防腐処理術やコレラの治療などを導入した。外国人薬剤師や日本人助手櫛部漸(東京公会会員)などを雇った。後に、櫛部漸は京橋区桶町で開業医になる。 フォールズは1886年に離日し、その後病院は次第に荒廃した。近年までルドルフ・トイスラーが、この病院の建物を買い取り、聖路加病院を設立したとされてきたが、トイスラーが設立した聖路加病院は後述の愛恵病院の流れを汲む聖公会系の築地病院(英語名:St. Luke's Hospital)を前身とする病院であり、健康社という名前を持ったスコットランド一致長老教会系の築地病院とは別の病院と考えられる。ただし、いずれかの時期に合同した可能性は考えられる。
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築地病院(愛恵病院の後身)の歴史
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米国聖公会宣教医、フランク・W・ハレルが1884年(明治17年)3月に来日し、深川聖三一教会近くに「大橋診療所」を開設する。ハレルが辞任した後、1890年(明治23年)11月1日にチャニング・ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を開設して院長となった。 1896年(明治29年)6月13日に愛恵病院が築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称される。1899年(明治32年)秋には、築地病院が閉鎖。長田院長が辞任する。 1900年(明治33年)2月2日に、チャニング・ウィリアムズの後任であるジョン・マキムの米国聖公会本部への要請が実り、ルドルフ・トイスラーが夫妻で来日。1901年(明治34年)1月後半にはトイスラーが佃島に聖アンデレ診療所を開設。1901年(明治34年)2月12日に、トイスラーが旧築地居留地37番(築地病院跡地)に築地病院を前身とする「聖路加病院」(現在の聖路加国際病院)(英語名:St. Luke's Hospital)を開設。開設された聖路加病院の英語名は、築地病院と同じ「St. Luke's Hospital」であり、閉鎖されていた聖公会系の築地病院の再建でもあった。
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