築城の必要性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
清代の18世紀中期の乾隆、嘉慶年間以降、泉州より多くの移民が台湾に移住し淡水河ほとりの艋舺地区に定住した。その後平埔族との通婚により人口が増大、「一府二鹿三艋舺」と称される繁栄を築いた。しかし1853年に分類械闘あるいは頂下郊拼という地域闘争に敗れた泉州同安人は大稲埕に移住し商業に従事するようになった。これ以来艋舺と大稲埕が台北の中心地として栄えるようになった。 1871年、台湾出兵により琉球に対する宗主権を喪失した清朝は、日本の勢力が台湾に及ぶことに危機感を抱き、台湾を中国防衛の前線と位置づけ、1875年に福建巡撫の沈葆楨が上奏した『台北擬建一府三県』奏摺を採用し台北府城が正式成立することとなった。
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