ジェルマン・アンリ・ヘスとは? わかりやすく解説

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ヘス【Germain Henri Hess】

読み方:へす

[1802〜1850]スイス化学者ロシアペテルブルグ大学教授化学反応における熱総量研究し熱化学発展貢献


ジェルマン・アンリ・ヘス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/12 03:42 UTC 版)

ジェルマン・アンリ・ヘス
Germain Henri Hess
生誕 (1802-08-07) 1802年8月7日
スイス ジュネーヴ
死没 (1850-11-30) 1850年11月30日(48歳没)
ロシア サンクトペテルブルク
研究分野 地球化学鉱物学
研究機関 サンクトペテルブルク高等技術専門学校ロシア語版英語版
出身校 ドルパート大学
カロリンスカ医科外科学院
博士課程
指導教員
イェンス・ベルセリウス
主な業績 ヘスの法則
プロジェクト:人物伝
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ジェルマン・アンリ・ヘス(Germain Henri Hess、1802年8月7日 - 1850年11月30日)はスイス生まれのロシア化学者である。ロシア名はゲルマン・イヴァノヴィチ・ゲスロシア語: Герман Иванович Гесс)。

化学反応の反応熱の総量は、その反応の初めの状態と終わりの状態で決まり、途中の経路には関係しないというヘスの法則1840年に発表した。時期的にはマイヤーエネルギー保存則の論文を書く2年ほど前である。

それ以外の業績としては、鉱物に関する研究があり、テルルの鉱石にヘス鉱(Hessite)の名前が残されている。1832年には、ウラル山脈クロムに富む柘榴石を発見し、セルゲイ・ウヴァーロフ伯爵にちなんでウバロバイトと命名した。

経歴

ジュネーヴに生まれたが、家族と共にロシアに移住した。両親ともに家庭教師を務めていたことから、ドイツ語フランス語を習得した。現在のエストニアドルパート大学で医学と薬学を学び、医師の資格を習得。その後ストックホルムベルセリウスのもとで化学を勉強した。イルクーツクで産科医・眼科医として勤めたのち、1830年からサンクトペテルブルクに移り、教員養成機関・師範学本校(Главный педагогический институт)の化学の教授になった。1838年にはミハイロフスキー砲兵学校の教官にも就任している。ヘスの法則についての論文は1840年に発行された。1831年には化学の教科書"Основания чистой химии"を発表、改訂を重ねながら長く利用された。病気のため1848年に師範学本校教授を辞し、翌年には砲兵学校教官も辞任、1850年に亡くなった。



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