医師としての活動
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1877年(明治10年)、12歳で神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となり、この頃より国学研究・文学活動を志した。1880年(明治13年)、東京帝国大学医学部予科に入学し、あわせて桂園派の和歌を学びはじめた。このころより森鷗外と終生の交友を結び、1889年(明治22年)には鴎外や落合直文らと共に同人組織の新声社を結成する。同年8月にはバイロン・シェイクスピア・ゲーテ・ハイネなどの極めて西洋的な抒情詩を、厳選した和文や漢語の典雅を駆使して訳出した訳詩集『於母影』(おもかげ)を『国民之友』誌の明治22年8月2日第58号夏期綴じ込み付録として発表した。西欧ロマンの心情を的確かつ流暢な日本語で表したこの詩集は、若き日の北村透谷や島崎藤村をすこぶる感化したばかりか、新体詩の形成とその芸術的昇華にも大きな影響を与えることになった。1890年(明治23年)、東京大学医学部の卒業と同時に医科大学付属病院眼科助手となり、2年後に姫路病院眼科医長として帰郷する。そののち岡山医学専門学校の眼科の教授となって1902年(明治35年)まで郷里にあったが、その年の冬に職を辞して再度上京し、内幸町井上眼科医院を丸の内内幸町一丁目胃腸病院横町に開業した。1904年(明治37年)、論文によって医学博士の学位を授けられる。同年、「家庭衛生叢書 第1編」を執筆刊行。本書は北里柴三郎ら広範な専門の医師たちによる一般家庭用の「家庭の医学」書の原点であった。現存するもので第10編まであり、けがの対象方法から花柳病(梅毒・淋病)、結婚と浮気についての対処法などが記述されている点で非常に実用的な家庭医学書として愛読された。(博文館出版)
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医師としての活動
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長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。 そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。 伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。 しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではない。 『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。 その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もない頃のイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える。 この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で、その相手が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買った。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、ようやく彼の予言の正しさが証明されたのだという。この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二番煎じという指摘もある。
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