医師と儒学者の兼務
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文政6年(1823年)、春山は24歳で田原城北側の角場(射撃練習場)脇の自宅において医者として開業した。この頃から成章館でも儒学の指導を開始している。 文政9年(1826年)には九州方面に旅に出たようで秋に豊後国日田(現在の大分県日田市)の咸宜園に赴き、儒学者の広瀬淡窓に面会している。その後の足取りは不明だが、文政11年(1828年)には本人によるとまる1日で長崎から日田まで歩いてたどりつき、2月13日から7月25日まで咸宜園に入塾したことが確認できる。春山は母の出身身分が低い(百姓)であるため、庶子扱いを長く受けていたが、文政12年(1829年)、29歳ではじめて藩医の嫡子として認定された。翌文政13年(1830年)9月には毎月6度ずつ藩主三宅康直の御前で進講するよう命じられた。その後江戸に出て、11月17日には田原藩の巣鴨下屋敷で当時田原藩隠居であった三宅友信とその側用人であった渡辺崋山に初めて対面した。春山の九州の旅話を崋山はとても気に入っている。,。この後、春山と崋山とは藩政や海防問題などでも親しく意見を交わすような深い間柄となった。 天保2年(1831年)に医師として剃髪を願い出た際には、藩主から藩儒であるからと許されなかった。この頃の春山は、成章館の正式な教授として任用されるなど、儒学者としての勤務も含まれていたためである。同年、藩士の丹羽長平の姉・厚を妻に迎えた。天保5年(1834年)、春山は藩主三宅康直の侍医となり、天保6年(1835年)2月に康直の参勤交代に伴しての江戸行きを命ぜられた時、ようやく剃髪を許された。この頃に二度目の長崎留学を行ったという説もあるが、他の記録上の江戸詰めの時期を考慮した場合、確実性に欠け、立証できない。一方、洋学研究者の佐藤昌介は春山がこの時期に田原藩の巣鴨下屋敷で三宅友信や高野長英・小関三英らが行っていた蘭学研究に本格的に加わり、特に長英からオランダ語を本格的に師事し、これが両者の後年の深い結びつきにつながっているのではないかと推測している。。
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