医師と儒学者の兼務とは? わかりやすく解説

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医師と儒学者の兼務

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 15:53 UTC 版)

鈴木春山」の記事における「医師と儒学者の兼務」の解説

文政6年1823年)、春山24歳田原城北側の角場(射撃練習場)脇の自宅において医者として開業したこの頃から成章館でも儒学指導開始している。 文政9年1826年)には九州方面に旅に出たようで秋に豊後国日田現在の大分県日田市)の咸宜園に赴き、儒学者広瀬淡窓面会している。その後足取り不明だが、文政11年1828年)には本人によるとまる1日長崎から日田まで歩いてたどりつき、2月13日から7月25日まで咸宜園入塾したことが確認できる春山は母の出身身分が低い(百姓)であるため、庶子扱い長く受けていたが、文政12年1829年)、29歳ではじめ藩医嫡子として認定された。翌文政13年1830年9月には毎月6度ずつ藩主三宅康直御前進講するよう命じられた。その後江戸出て11月17日には田原藩巣鴨下屋敷当時田原藩隠居であった三宅友信とその側用人であった渡辺崋山初め対面した春山の九州の旅話を崋山はとても気に入っている。,。この後春山崋山とは藩政海防問題などでも親しく意見を交わすような深い間柄となった天保2年1831年)に医師として剃髪願い出た際には、藩主から藩儒であるから許されなかった。この頃春山は、成章館正式な教授として任用されるなど、儒学者としての勤務含まれていたためである。同年藩士丹羽長平の姉・厚を妻に迎えた天保5年1834年)、春山藩主三宅康直侍医となり、天保6年1835年2月に康直の参勤交代伴して江戸行きを命ぜられた時、ようやく剃髪許された。この頃二度目長崎留学行ったという説もあるが、他の記録上の江戸詰め時期考慮した場合確実性欠け立証できない一方洋学研究者佐藤昌介春山がこの時期田原藩巣鴨下屋敷三宅友信高野長英・小関三英が行っていた蘭学研究本格的に加わり、特に長英からオランダ語本格的に師事し、これが両者後年の深い結びつきつながっているのではないか推測している。。

※この「医師と儒学者の兼務」の解説は、「鈴木春山」の解説の一部です。
「医師と儒学者の兼務」を含む「鈴木春山」の記事については、「鈴木春山」の概要を参照ください。

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