長崎留学
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1866年(慶応2年)11月、徳島藩主斉裕は、22歳の長井に長崎留学を命じた。鎖国のなか、外国の知識を本格的に学ぶには、長崎に留学するほかなかった。また、海外に留学するにも、まずは長崎に留学するという風潮となっていた。精得館に入学し、西洋医学をマンスフェルト(C.G. van Mansvelt)から、化学をボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)から学んだ。 医学を漢方で学んできた長井だが、下宿先が(後に日本写真界の開祖となる)上野彦馬宅であったことも大きく影響し、化学に惹かれるようになった。本来はハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)のもとで学ぶ予定だったが、ちょうどハラタマが江戸に移っていたため、上野宅で化学実験を勉強することとなったのだが、このことは後にドイツで非常に役に立つこととなる。写真は当時最先端の技術であり、上野宅には名士が集まっていた。ここで長井は坂本龍馬、大久保利通、伊藤博文の熱弁に触れている。
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