『救瘟袖暦』の執筆と晩年
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「工藤平助」の記事における「『救瘟袖暦』の執筆と晩年」の解説
天明6年の10代将軍・徳川家治の薨去により田沼時代は終わりを告げ、こののち、平助の経世家としての名望は失われ、蝦夷地開発計画は頓挫して平助の蝦夷奉行内定の話も沙汰止みとなった。林子平『海国兵談』も版木を没収されて発禁処分となり、子平自身も幕府より仙台蟄居を命じられた。 しかし、平助はその後も江戸で医師としての活動をつづけており、寛政5年(1793年)には弟子の米田玄丹からロシア情報を得て、『工藤万幸聞書』を著し、寛政9年(1797年)には医書『救瘟袖暦』を著した。これは、のちに大槻玄沢による序が付せられることとなる。同じ年の7月には8代藩主・伊達斉村の次男で生後10ヶ月の徳三郎(のちの10代藩主・伊達斉宗)が熱病のため重体に陥ったものの平助の治療により一命を取りとめた。平助はその褒賞として白銀5枚、縮2反を下賜された。 寛政12年12月10日(1801年1月24日)死去。享年67。墓所は深川(東京都江東区)の心行寺に所在する。
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