『救瘟袖暦』の刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/18 23:13 UTC 版)
平助は、友人で仙台藩の蘭医であった大槻玄沢に『救瘟袖暦』の刊行の意思を伝えたところ、玄沢も喜んでそれを勧めたというが、平助の生前には刊行されなかった。ただし、平助の自筆稿本は、門人によって書写されている。 『救瘟袖暦』が刊行されたのは、平助没後の文化13年(1816年)3月のことであった。刊本は横19センチメートル、縦25センチメートルで、「浅草南馬道町(東都) 桑村半蔵」の奥付がある。「桑村半蔵」とは、3代桑原隆朝(桑原士愨、桑原隆朝如則)のことである。桑原家は、工藤家同様仙台藩江戸詰めの藩医を世襲しており、平助の妻の実家にあたる。 桑原士愨(如則)は、文化12年(1815年)に大槻玄沢の序を得て『救瘟袖暦』を校訂し、翌年、刊行にいたっている。工藤周庵(静卿)が刻した体裁をとっているが、静卿は桑原士愨の次男で当時はまだ幼く、平助の後継者であった工藤源四郎鞏卿が文化4年(1807年)12月に34歳で亡くなったのち工藤家に養子に入り、その家督を継いだ人物である。 大槻玄沢は、「序」のなかで、桑原士愨の校訂した稿本について、これはまさしくかつて平助が自分に示したものであり、巻をひらいてこれを読むと、かすかに亡き親友に逢う思いがして涙が流れてとまらないと記し、また、士愨の刊行に向けた努力については「士愨ノ挙、其ノ志、篤ト謂ウベキ可キ也」(原文は漢文)として讃辞を述べている。
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