工藤平助
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工藤 平助(くどう へいすけ、享保19年(1734年) - 寛政12年12月10日(1801年1月24日))は江戸時代中期の仙台藩江戸詰の藩医で経世論家。『赤蝦夷風説考』の筆者で、若き日の林子平に影響を与えた人物。医師としては工藤 周庵(くどう しゅうあん)、還俗後は平助を名乗った。名(諱)は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)で、万幸、晩幸とも表記する。
注釈
- ^ 只野真葛『むかしばなし』には、工藤家に出入りした大名として「周防様、山城様、細川様」の名を挙げ、また、「出羽様・秋本様・大井様はわけても」出入りが多かったことが記されている。
- ^ 山形敞一によれば、当時の工藤宅は「築地の梁山泊」と呼ばれることがあったという[3]。
- ^ なお、ベニョヴスキー伯爵は世界を駆ける国際的な犯罪者であり、爵位も自称で殺人・詐欺・反政府活動・脱獄の前科がある。さらには書簡も偽書でありクリル諸島に要塞を築いているという根も葉もない荒唐無稽な内容であった。
- ^ a b c 前田玄丹と米田元丹は同一人物の可能性がある。
- ^ ドイツ人ヨハン・ヒュブネル (1668-1731) の欄訳『Vollständige Geographie(一般地理学)』(1769年アムステルダム刊)のこと[2]。
- ^ 日本での通称は『Beschryvinge van RUSLAND(ベシケレーヒンギ・ハン・リュスランド)』ブルウデレッキ (Johannes Broedelet) 著、正しい本の題はオランダ語: Oude en Nieuwe Staat Van't Russische of Moskovische Keizeryk, Behelzende Eene Uitvoerige Historie Van Rusland en Deszelfs Groot-vorsten(1744年ユトレヒト刊)[2]。
- ^ 『ベシケレーヒンギ・ハン・リュスランド』は、後に吉雄耕牛によって翻訳された。両書とも北槎聞略でも言及されている。
出典
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