医師から政界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:23 UTC 版)
「サルバドール・アジェンデ」の記事における「医師から政界へ」の解説
チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になった。医学生時代は病院の遺体安置所と精神病院でアルバイトをする間にチリ社会の貧困に直に接した。また、医学生時代には政治活動を始めており、言論の自由をテーマに演説を行った際に聴衆の大喝采を浴び学生のリーダー的存在になっていた。博士論文では、精神病院で働いた経験をもとに精神衛生と犯罪をテーマに執筆したが、そこで彼が提案したことは、公的医療制度の創設や衣食住と教育の問題、国家の役割の拡充など、後に彼が議員として主張することと共通する点が多い。 外科医になったアジェンデは病院の遺体安置所の助手として遺体の洗浄と検視に従事し、そこでも貧困に接することになった。1933年にチリ社会党結成に参加し、1935年にはフリーメーソンに入会。そして1937年に国会議員(下院)に選出された。当時のチリでは、社会保険加入率が13%、労働者の収入の87%が衣食住に消えるという有様だったため、アジェンデは国会で「病院に搬入される病人の中で、暖かさと住居だけを必要としている病人が多すぎる」として、政府の医療法案を徹底的に批判した。 1938年に急進党を中心とする人民戦線政府が樹立されると、その翌1939年にアジェンデは保健大臣として入閣し、医療施設の建設を柱とするプロジェクトを推進した。さらに、この時期からアジェンデは、チリの天然資源に対する主権を回復するための法案を提出していた。 1945年には上院議員に選出されたが、社会党の独善的体質を批判していたアジェンデは社会党指導部から締め出され、以後、二度と社会党の役職に就くことはなくなる。そして1948年に親米政権が共産党を非合法化して共産党指導部を強制収容所へ送ると、アジェンデは国会の場で、「マルクス主義を信奉する革命家たる我々に明日にも適用されるだろう」、「今日の社会的組織の自由は見せかけにすぎない。実際に自由なのは、権力と生産手段を支配するごく少数の者だけである」として、当時の政権を徹底的に批判した。また当時、チリの鉱物資源の価格は米国が決めており、チリは低価格で米国に売らざるをえない立場にあった(しかも米国以外には銅を売らないという取り決めにチリ政府は同意していた)ため、そうした状況も批判的に指摘した。1951年には演説の中で「低開発が存在するのは帝国主義が存在するからです。そして、帝国主義が存在するのは低開発が存在するからです」と、反帝国主義の姿勢を明確に示した。
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