「伝説」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 07:09 UTC 版)
この六連戦では数々の名場面が生まれ、その死闘の連続も相まって、六連戦は現在まで語り継がれる「伝説」となった。 安藤元博は5試合に完投、特に第3戦からは4戦連続の完投で49イニング、564球を投げ抜いた。 第3戦の9回表1死3塁、早稲田の3塁走者徳武は野村の遊ゴロで本塁に突入した。タイミングは完全なアウトだったが徳武は右足を高く揚げて滑り込み、慶應の大橋捕手をはね飛ばして落球を誘いホームインした。ところが心配して大橋の様子をうかがおうと本塁へ戻った徳武を、センターから血相を変えて飛び込んできた渡海が突き飛ばし、双方選手入り乱れてあわや乱闘かという事態になった。事態は石井・前田両監督が鎮めたものの騒ぎは9回裏の慶應の攻撃になっても収まらず、興奮した3塁側慶應学生席から3塁を守る徳武に激しい野次とともに物が投げ込まれる。1933年の「リンゴ事件」の再来かと思われる最悪の事態となっていた。前田監督はとっさに3塁コーチボックスに立ち、いきり立つ学生席を鎮めた。 優勝決定戦の初戦、慶應は1点をリードして9回表を迎え、伊田保生を討ち取って優勝まであと2人まで迫った。ここで早稲田は2年生の鈴木悳夫を代打に起用、これが見事に当たって同点にこぎ着けた。まさに起死回生、試合を引き分けに持ち込んだのである。 続く再試合、慶應は11回裏に安藤の四球と榎本のエンドランで無死1,3塁のサヨナラ=優勝のチャンスをつくった。早稲田は満塁策を取り、右打者の渡海に備えて肩の弱い伊田をライトに、強肩で守備固めの鈴木勝夫をレフトに回した。ところが早稲田の意に反して渡海の打球は代えたばかりの伊田の前に。誰もが犠牲フライで慶應の勝利と思った瞬間、伊田が好返球を送り3塁走者安藤統を刺してしまった。伊田の一世一代のバックホームで早稲田はまたも死の淵から甦り、続く6連戦目での勝利を呼び込んだのだった。安藤統はいまでもこのプレーを「セーフだった」と主張している。 安藤元は最下位だった明治戦で続けざまにノックアウト、不調のどん底だった。そこで早稲田の石井監督は安藤元にノースロー調整を命じる。傍目には安藤元は責任をとって干されたと見えたが、石井の師飛田穂洲が疲労回復のためにと助言したものだった。安藤元はその間走り込みに専念、これで調子を取り戻して6連戦の快投へとつながったのである。安藤元の球を全て受けた野村によれば、試合を重ねる毎に安藤元の調子は上がり、6連戦目はむしろ初戦のときより球がきていたという。実は石井は明治戦での不振は安藤元の精神がたるんでいるからと見て投げ込みを命じようとしており、飛田の一言がなければ、六連戦はもとより早慶戦で勝ち点を挙げていたかどうかわからなかったところである。 安藤元の好投とは対照的に早稲田の主砲・徳武は5戦目まで1安打1打点と不振を極めた。すでにプロ数球団から誘いを受けて進路に悩んでいたことに原因があると見た石井監督は徳武に早く球団を決めるよう促した。国鉄スワローズに入団を決めた徳武は、これで吹っ切れたかのように6戦目に試合を決定づける適時打を放った。 当時から東京六大学野球連盟の事務局を務めていた長船騏郎によれば、この年(1960年)、神宮に照明塔を設置するかどうか議論があったが結局設置しなかった(1952年に撤去していた→「明治神宮野球場」の項参照)。設置していれば、決定戦の日没引き分けもなく、6戦目までもつれることはなかったことになる(「東京六大学野球八十年史」、2005年)。 同じく長船の談だが、優勝決定戦引き分けの後に1日の中休みが入ったが、これは両校の疲労に配慮してのことではなく、チケットがなくなりその印刷に1日必要だったためである。(同上) この6戦中、ホームランは1本も出なかった。ワンバウンドでスタンドに入るエンタイトル三塁打(当時の神宮特別ルール)も1本のみ。全試合を通じて最高得点は4点止まり、1イニング3点以上のビッグイニングはなかった。 6戦目、慶應應援指導部が応援の秘密兵器にと用意していたチアリーダーが応援リーダー台に立った。ここに女性が立つのはこれが初めてで、その華麗な姿は満場を大いに盛り上げた。これが日本の野球応援にチアリーダーが登場した最初だといわれている。 この六連戦には連日満員(計38万人)の観客が詰めかけ、決定戦が引き分けに終わると次の試合のチケットを求める徹夜組の列が早速でき上がり、近くの青山霊園で古い卒塔婆を拝借して焚き火の材料にする者も出る始末だった。六連戦の模様はNHKだけでなく民放各局が連日放映、全国の注目を大いに集めた。当時の選手たちだけでなく早大の関係者、当時を知る野球ファンのなかでは、六連戦は「あの」という言葉を頭に付けて語られる。 この当時は1試合あたりの観客動員数でプロ野球との地位が逆転しつつあるときだった。六連戦と前後してプロ野球は徐々に観客数を伸ばし、国民的な人気スポーツの地位を確保した。一方六大学は少しずつ観客数を減らし、テレビ中継していた民放局も徐々に放映から撤退していく。そのため、この六連戦を“六大学最後の栄光”としてとらえる向きも存在する(長嶋茂雄の立教卒業→プロ野球入りの時機を転機とする意見もある)。
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