「伝書」としての性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 00:30 UTC 版)
『下官集』は藤原定家が仮名遣いを説いたものであるとして、もっぱらその中の「嫌文字事」ばかりが取り上げられているが、上で解説したようにその全体をみれば、仮名遣いのことよりも仮名(主に和歌)を綴り写本をつくる上での、定家のこうあるべきだという主張をまとめたものであることは明白である。ただし『下官集』の内容は同じ書写するのでも「書始草子事」で触れたように、勅撰和歌集とくに三代集の書写を念頭に置いたものであったという。また題号と見られる「僻案」をはじめとして、ところどころに卑下謙遜の言葉が見られるが、今でも贈答品のやりとりで「つまらないものですが」というのと同じように、相当な自信のあらわれともいえる。 当時の和歌を業とする公家の家にとっては、『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集や歌書等の本は重要視され、またそれらに対する本文の解釈や校訂も、その家が伝える「説」として大事にされていた。「嫌文字事」すなわち仮名遣いを定めることも、そうした解釈や校訂をどのようにそれら写本に反映させていくべきかという例として記されているといってよい。『下官集』はそういった「説」の一種を他家との差異を強調して説き、子孫に伝えていく「伝書」として執筆されたものであった。現に定家自筆の『下官集』は、その息子藤原為家が所持していたことが判明している。 藤原清輔の名が出てくるがこれは何の気なしに取り上げたわけではなく、かつて定家は清輔の筆写した『古今和歌集』を見たことがあり、それがこの『下官集』執筆の背景だったのではないかともいわれる。つまり清輔の筆写本を見て、「うちじゃ三代集の写本はこう作るんだ」というつもりで書いたのがこの『下官集』であった…ということである。清輔は当時和歌の家(六条家)として、同じく和歌の家である定家の家(御子左家)とは和歌において対立していた。しかしいずれにしても時代が下るにつれ、『下官集』は仮名遣いを説いた部分が人々の注目を集め、「を」と「お」をアクセントで書き分ける方法などが行阿の『仮名文字遣』に受け継がれる。やがてそれがいわゆる定家仮名遣として用いられる事になるのである。
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