「伝承」の確定(昭和初期)
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「隅田川花火大会」の記事における「「伝承」の確定(昭和初期)」の解説
あやふやだった花火大会の起源に関する「伝承」が確定し、流布していく画期が、1934(昭和9)年に訪れる。この年に刊行された公式プログラム『両国川開大花火番組』に「川開きと花火の沿革」という論考が掲載されたのである。 顧みますれば、今から二百余年前、享保十七年、八代将軍吉宗の時、前年の豊作に引かへて大飢饉が襲来し、米価頻りに騰貴して、山陽、西海、四国が尤も甚だしく、民の餓死するものが九十六万余人に達したといはれ、且つ江戸においてはコロリ病(現今のコレラ)が流行し、死者は路傍に打棄てられる有様であつたので、時の政府は、その慰霊且つ悪疫退散のため、両国川下に水神祭を催して死者の追善供養を行ひました。翌十八年、前年の水神祭、川施餓鬼に因んで、矢張り五月二十八日に川開きを行ひ、八月二十八日に至る三ケ月の間は、数限りもない屋形船、屋根船、伝馬、猪牙船などの納涼船が山谷、橋場、遠くは白鬚、水神のあたりから、一方深川辰巳花街から大川尻まで『吹けよ川風上れよ簾』とゆるゆると涼を追ふて明け易い夏の夜を、更くるまで水に親しみ、東都歳時記にも『今夜より花火をともす』とあるのを見ますから、五月二十八日の川開き以後、毎夜のやうに色々な趣向を凝らして大小の花火や仕掛花火を打あげたものであります。 — 三宅狐軒「川開きと花火の沿革」より抜粋 三宅は、先に引用した若月紫蘭の『東京年中行事』の記述を下敷きにしつつ、(1)コレラの流行、(2)慰霊と悪疫退散という目的、(3)時の政府(江戸幕府)による実施、(4)水神祭と川施餓鬼という4点を付け加えた。これまでばらばらだった断片がまとめあげられ、ここに「伝承」が完成したのである。 三宅は、日本料理に関する著書を何冊も出し、俳句も嗜む文化人であった。そのような人物が、主催者の公式プログラムに、享保の大飢饉の説得的な根拠を示して花火大会の起源を論じたため、これが「定説」として定着していく。木村荘八(画家、風俗史家)、朝倉治彦(江戸研究者)、『墨田区史』などがこれに追随し、流布されていったのである。 この言説は、「民を慈愛する名君、徳川吉宗」というイメージと、「死者の魂を鎮め、災厄を川に流す」という民俗的な死生観などが合わさって、「民俗学的によく出来た」話になっていたことから、受容が進んだと考えられる。 以上のように、隅田川花火大会の起源については、1891(明治24)年から1934(昭和9)年までの40年ほどの間に、花火業者の広告目的から慰霊と悪病退散のためへと趣旨がすり替わり、かつ、明暦以前開始説や天和2年開始説もあった中で、享保18年開始説が根拠もなく採用され、広まっていった。こうして、「伝承」という名の作り話が定着したのである。
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