眼科への転身失敗と執筆業一本化
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「眼科への転身失敗と執筆業一本化」の解説
1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会においてロベルト・コッホが新しい結核治療法を発見したと発表した。気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという。 このベルリン滞在時にドイルは突然眼科医になることを思い立った。1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受けた。しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した。 帰国後にはロンドンのモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった。 診察所を閉鎖するとサウス・ノーウッド(英語版)郊外テニスン・ロード12番地に移住した。
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