土生玄硯
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土生 玄硯(はぶ げんせき、宝暦12年(1762年) - 嘉永元年(1848年8月17日))は、江戸時代後期の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖[1]。名を義寿、幼名は久馬、はじめ玄道と称し、のち玄硯、号は桑翁、字は九如。
生涯
安芸国高田郡吉田町(広島県安芸高田市)の医家土生義辰の長男として生まれる。土生家は代々この地で眼科を業とした。安永7年(1778年)、17歳のとき京に出て和田泰純(東郭)について医方を修め一旦帰郷するが、家伝の漢方眼科に飽き足らず、再び大坂に出て三井元孺、高充国などに就き新知識を受け、特に眼科手術を修得して25歳で帰郷し家業を継いだ。享和3年(1803年)広島藩の藩医となる。文化5年(1808年)広島藩第七代藩主・浅野重晟の6女で南部利敬に嫁した教姫が眼病に罹り、不治とされたのを玄硯が召出され、江戸におもむき精妙な治療で全治させたことから大いに名声を得る。そのまま江戸にとどまり芝田町に開業し眼科医として盛名をはせた。文化7年(1810年)江戸幕府の奥医師、文化10年(1813年)法眼に叙せられる。
文政5年(1822年)オランダ商館付の医師として来日したシーボルトが、文政9年(1826年)江戸に寄ったとき、玄硯はシーボルトに眼科について質問し、白内障等の手術に瞳孔散大薬を用いれば便利なことを知る。シーボルトに将軍から拝領の三つ葉葵の紋付を与え、これと交換にその薬法を受けた。紋服を外国人に贈ることは国禁であったが、同胞万民の病苦を救うためあえてこれを行う。このため、のち玄硯が日本の実験眼科の祖とされた。
文政11年(1828年)、先の将軍家紋服を贈与したことが発覚(シーボルト事件)。罪を問われ、官禄を奪われ獄に入った。のち天保8年(1837年)許され、江戸木場に居を構えて眼科を開業し隆盛を極めたという。87歳で没。著書に『師談録』『迎翠堂漫録』などがある。
講談などでしられる「男の花道」は、三代目 中村歌右衛門と眼科医との友情物語であるが、講談では眼科医は半井源太郎、映画や歌舞伎では土生玄硯となることが多い。
脚注
参考文献・ウェブサイト
- 『日本歴史人物事典』 朝日新聞社 1976年
- 『広島県大百科事典』 中国新聞社 1994年
- 土生玄碩 とは - コトバンク
- 中央区 土生玄碩の墓は築地本願寺にある
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