晋卿として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:26 UTC 版)
紀元前548年、士匄が亡くなり、士鞅がその後を継ぐ。その際士匄から一人でやれる能力や相談者が無いことを心配されるが、士鞅は学問や仁者、正道を重視し、独断に走らないよう相談すると答え、士匄を安心させた。 そして、正卿・中軍の将の趙武(趙文子)・韓起(韓宣子)のもとで活躍するが、年を経ていく内に士匄への誓いに背くような行いが目立つようになる。例えば、紀元前521年に魯を訪れた際、同時期に来た斉の使者の鮑国(鮑文子)以上の饗応をするよう恫喝したり、後の紀元前519年には、当時晋に捕らわれていた魯の叔孫婼(叔孫昭子)に、帰還と引き換えに冠を賄賂として要求したり、更に紀元前515年には、魯の季孫意如(季平子)との対立が元で亡命していた昭公の帰国を相談する会合では、季孫意如からの贈賄を受けてこれを妨げるなど、次々と悪名を残していった。
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