伊佐への移動と五卿萩行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
「功山寺挙兵」の記事における「伊佐への移動と五卿萩行」の解説
12月17日、この日、月形は諸隊から五卿渡海の承諾を得るに至った。奇兵隊総督たる赤禰武人、筑前正義派と呼び身内扱いしていた福岡藩攘夷志士、半ば君主と仰ぎながら九州行きを決めた五卿、最後の頼みの綱とした長府・清末藩藩主らの説得を受け、諸隊はついに藩政府へ恭順したようである。恭順した諸隊は決起した高杉との混同を避けるため、長府藩領を出て長州本藩領である伊佐に撤退した。奇兵隊軍監の山縣有朋は少し遅れて諸隊に続いた。遅れた理由は時勢を悲観して剃髪したためと言われこれより後、山縣は素狂と名乗る。ただし伊佐に移った後も、山縣ら諸隊幹部は高杉や遊撃隊と連絡を取り合ったという。 説得を受け入れず長府に残留したのは、馬関の高杉ら遊撃隊と、決起を直前に断念し一時は切腹を考えた太田市之進率いる御楯隊のみである。御楯隊は功山寺へ赴き五卿を守護するようになる。 ただし公爵山縣有朋伝によると諸隊の伊佐行きは、三條実美・三條西季知が別れの挨拶のため萩へ行く際の護衛の為であり、諸隊が恭順したという記述はない。それどころかこの萩行は、三條を通じて野山獄の正義派高官の釈放・武備恭順を藩主へ直訴する事を目的としていたとされる。他にも公爵山縣有朋伝には、諸隊が伊佐へ移った理由は、高杉晋作挙兵に応え、萩へ進撃して藩政府軍と戦うためであるとする記述もある。さらに両派混同論を解く赤禰は萩行へ同行せず、馬関へ赴き高杉に従い残留していた遊撃隊の説得を続けたという。 この点も史料によって矛盾があり、どちらが正しいか不明である。 同日、萩藩政府は、先日の巡見使長谷川の強行発言を受けて、藩主父子の上書として、諸隊・脱藩浪士征討の旨をしたためた書状を吉川を通じて総督府に提出し、萩藩政府は諸隊追討部隊の編成のため、萩在住の藩士に召集をかけた。
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