秦の太后に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 08:08 UTC 版)
恵文君13年(紀元前325年)に公子稷(後の昭襄王)を産む。この後、14年の間に恵文王との間に公子巿(高陵君)と公子悝(涇陽君)を設けた。 恵文王14年(紀元前311年)に恵文王が亡くなり、恵文后(魏夫人)の産んだ長男の嬴蕩が武王として秦王の座を継いだ。 武王4年(紀元前307年)には武王が若くして亡くなったが武王には正室の武王后との間に子がなかったため、彼の兄弟たちが秦の王位を巡って争うことになった。 趙の武霊王の計らいで、代国の宰相の趙固によって燕に人質となっていた公子稷が趙を経由して秦に送り届けられた。多くの群臣が反対する中、異父同母弟である魏冄の支援により公子稷が昭襄王として秦王に即位することになったが、昭襄王は年若く、加冠の儀(成人の儀)を終えていなかったため、宣太后と魏冄・羋戎が秦の朝政を取り仕切ることになった。 昭襄王元年(紀元前306年)から昭襄王2年(紀元前305年)にかけて武王の後継者争いで敗れた昭襄王の兄弟で、恵文王の庶長子の公子壮(季君)が反昭襄王勢力をまとめて反乱を起こした(季君の乱または庶長壮の反乱)。 魏冄がこれを鎮圧し、昭襄王の兄弟で公子荘や公子雍を始めとする叛いた者は皆滅ぼされ、反乱に加担した大臣や恵文王の正室の恵文后も処刑され武王后は故国の魏に追放(または自ら逃亡)された。
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