司馬懿との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:45 UTC 版)
初め、司馬懿に対しては父親に等しい対応で接していたが、何晏ら取り巻きの提言で権力を独占しようと画策し、司馬懿を太傅に祭り上げて、事実上の名誉職に追いやることで、彼の権力を押さえ込もうとした。しかし、司馬懿の軍事的実績が重く、その軍権はそのままだった(曹爽も司馬懿の軍権を保証するため、司馬懿の大司馬兼任を推挙したが、不吉な先例があったとして却下されている)。一方曹爽の取り巻きは、名声はあるものの実績が乏しかった。そこで、大功を立てようと244年(正始5年)に蜀漢征伐を試みるが(興勢の役)、険しい地形に阻まれて大軍を維持するための補給が滞り、蜀の王平の頑強な抵抗もあって無惨にも失敗している。また、補給に氐・羌族を動員したが、輸送などの事故による犠牲者が少なからず出たため、彼らの不満を高める結果になった。その後、何晏達が政治を壟断したため、魏の政治は乱れることになった。司馬懿はこの状況を憂慮し、また保身のため「自分は高齢である」という理由で、病気と称して引き籠ってしまった。246年(正始7年)に呉の孫権が朱然率いる軍を派遣して柤中に攻め込ませ、曹爽は中央朝廷の大軍の指揮を自ら執り、これを迎え撃した(二度目柤中の戦い)。曹爽の大敗によって犠牲者も数万人以上となり、朱然に大破されたので敗走した。しかし、朱然はこれを見逃さず、柤中を越えて魏軍を追撃し数千余人を斬り、魏軍は大敗を喫した。
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