司馬懿とその子孫とは? わかりやすく解説

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司馬懿とその子孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)

三国志演義の成立史」の記事における「司馬懿とその子孫」の解説

司馬懿(字:仲達)は、魏の将軍として北伐挑む孔明立ちはだかるライバルである。劉備にとっての曹操とも言え物語後半孔明司馬懿対決中心となる孔明計略きりきり舞いさせられるが、最終的に守り切った史実曲げておらず、そのため周瑜魯粛のようには貶められていないまた、最終的に司馬氏が魏を滅ぼし西晋建国した史実から、司馬懿扱い複雑な色彩増している。 司馬懿初めて姿を見せるのは第39回曹操江南制覇先駆けて人材登用し中に見られる孔明三顧の礼仕官した第38回次の回で司馬懿出しておくのは、後の展開のための巧妙な伏線である。孔明北伐に際して馬謖計略により左遷させられてしまうが(第91回)、元劉備配下で、魏に服属していた孟達が再び蜀漢通じたために復権し、孟達手早く片付ける(第94回)。史実では馬謖左遷させられたという記述はなく、また司馬懿孔明対峙したのは、孟達倒したことを別にすれば、231年第四次北伐以降となるが、『演義』では初めからライバルとして登場している。北伐では「空城の計」に引っかかり最後五丈原陣没した孔明智略で「死せる諸葛生ける仲達を走ら」されることになる。 しかし、同じ引き立て役周瑜などとは違い司馬懿天文通暁するなど、一種超能力者として扱われている。無論天文見て孔明の死を悟りながら、「死せる諸葛生ける仲達走らす」(第104回)結果に終わるなど、孔明よりは数段劣った存在ではあるが、超能力片鱗付与されなかった周瑜扱いとは異質である。魏の圧倒的な軍事力バックにあったとは言え司馬懿孔明北伐凌ぎ切ったことは事実であり、『演義』も大筋では史実準拠している。そのため、超能力者というべき孔明阻止した司馬懿に、小魔術師要素付け加えた考察されている。 以降司馬懿は、魏に反旗を翻した公孫淵討ち、みずからを名誉職太傅棚上げした曹爽クーデターで討つことで、魏の実権を握るに至る。後を継いだ長男司馬師は、みずからを除こうとした皇帝曹芳廃位させ、曹髦擁立した次男司馬昭は、みずからを討とうとした曹髦返り討ちにした上で曹奐擁立したその上で司馬昭の子司馬炎が、曹奐から禅譲を受け西晋を開くことになる。 一連の事件では、司馬氏行動には、歴史書の記述から大きな脚色見られない一方曹氏の側は、曹芳廃位は、かつて曹操献帝苦しめた因果応報として書かれ(第109回)、また曹髦殺害では、事前に司馬昭面前曹髦侮辱し曹髦近臣前に泣きじゃくる(第114回)など、曹髦情けなさを誇張している。そして、司馬炎禅譲要求抵抗するのは、もはや宦官張節のみであり、たちまち撲殺されてしまう(第119回)。『演義』において、司馬氏による魏の乗っ取りは、死を目前にした曹操が、三頭の馬が一つから餌を食う(三馬夢を見たという、正史『晋書』宣帝紀」にあるエピソード早くから暗示されている(第78回)。司馬懿孔明ライバルであるが、蜀漢の敵であり、孔明宿敵である魏を内部から滅ぼした存在でもあったのである

※この「司馬懿とその子孫」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「司馬懿とその子孫」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。

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