司馬懿とその子孫
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「三国志演義の成立史」の記事における「司馬懿とその子孫」の解説
司馬懿(字:仲達)は、魏の将軍として、北伐に挑む孔明に立ちはだかるライバルである。劉備にとっての曹操とも言え、物語後半は孔明と司馬懿の対決が中心となる。孔明の計略にきりきり舞いさせられるが、最終的に守り切った史実は曲げておらず、そのため周瑜や魯粛のようには貶められていない。また、最終的に司馬氏が魏を滅ぼし、西晋を建国した史実から、司馬懿の扱いは複雑な色彩を増している。 司馬懿が初めて姿を見せるのは第39回、曹操が江南制覇に先駆けて人材を登用した中に見られる。孔明が三顧の礼で仕官した(第38回)次の回で司馬懿を出しておくのは、後の展開のための巧妙な伏線である。孔明の北伐に際して、馬謖の計略により左遷させられてしまうが(第91回)、元劉備の配下で、魏に服属していた孟達が再び蜀漢に通じたために復権し、孟達を手早く片付ける(第94回)。史実では馬謖に左遷させられたという記述はなく、また司馬懿が孔明と対峙したのは、孟達を倒したことを別にすれば、231年の第四次北伐以降となるが、『演義』では初めからライバルとして登場している。北伐では「空城の計」に引っかかり、最後は五丈原で陣没した孔明の智略で「死せる諸葛、生ける仲達を走ら」されることになる。 しかし、同じ引き立て役の周瑜などとは違い、司馬懿は天文に通暁するなど、一種の超能力者として扱われている。無論、天文を見て孔明の死を悟りながら、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」(第104回)結果に終わるなど、孔明よりは数段劣った存在ではあるが、超能力の片鱗も付与されなかった周瑜の扱いとは異質である。魏の圧倒的な軍事力がバックにあったとは言え、司馬懿が孔明の北伐を凌ぎ切ったことは事実であり、『演義』も大筋では史実に準拠している。そのため、超能力者というべき孔明を阻止した司馬懿に、小魔術師の要素を付け加えたと考察されている。 以降の司馬懿は、魏に反旗を翻した公孫淵を討ち、みずからを名誉職の太傅に棚上げした曹爽をクーデターで討つことで、魏の実権を握るに至る。後を継いだ長男の司馬師は、みずからを除こうとした皇帝・曹芳を廃位させ、曹髦を擁立した。次男の司馬昭は、みずからを討とうとした曹髦を返り討ちにした上で、曹奐を擁立した。その上で、司馬昭の子の司馬炎が、曹奐から禅譲を受け西晋を開くことになる。 一連の事件では、司馬氏の行動には、歴史書の記述から大きな脚色は見られない。一方、曹氏の側は、曹芳廃位は、かつて曹操が献帝を苦しめた因果応報として書かれ(第109回)、また曹髦殺害では、事前に司馬昭が面前で曹髦を侮辱し、曹髦が近臣を前に泣きじゃくる(第114回)など、曹髦の情けなさを誇張している。そして、司馬炎の禅譲要求に抵抗するのは、もはや宦官の張節のみであり、たちまち撲殺されてしまう(第119回)。『演義』において、司馬氏による魏の乗っ取りは、死を目前にした曹操が、三頭の馬が一つの桶から餌を食う(三馬同槽)夢を見たという、正史『晋書』「宣帝紀」にあるエピソードで早くから暗示されている(第78回)。司馬懿は孔明のライバルであるが、蜀漢の敵であり、孔明の宿敵である魏を内部から滅ぼした存在でもあったのである。
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