鄧忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 05:46 UTC 版)
鄧 忠(とう ちゅう、? - 景元5年(264年)正月[1])は、中国三国時代の魏の武将。本貫は荊州義陽郡棘陽県(現在の河南省南陽市新野県)。『三国志』魏書に伝のある鄧艾の子。
生涯
甘露元年(256年)、父の鄧艾が段谷の戦いでの功績を賞され、その領邑から500戸を分けて、鄧忠は亭侯[2]に封じられる。
景元4年(263年)、鄧艾の配下で蜀漢討伐に従軍。綿竹にて師纂と共に諸葛瞻と交戦するが、緒戦は敗北を喫し、鄧艾から斬刑に処されそうになる。鄧忠と師纂は馳せ戻って再び戦を交え、今度は諸葛瞻らの首を斬る大勝を収めた。同年11月[1]、蜀漢の皇帝・劉禅は降伏し、鄧艾軍は蜀制圧という大功を立てた。
この後、鄧艾は「このまま呉も征討すべき」と強硬に主張したが、鍾会らにそれを反乱の企てと告発され、景元5年(264年)正月[1]、鄧艾・鄧忠父子は逮捕される。その身柄は都に送還されるところだったが、反乱を企てた鍾会も殺害される混乱の中、鄧艾は彼に恨みを抱く田続によって殺害され、鄧忠もまた父と共に死に至る。
西晋の時代には鄧艾の名誉は回復され、嫡孫の鄧朗が登用されている。ただし彼の父が鄧忠とは明言されていない。
羅貫中の小説『三国志演義』では白面の美丈夫で、鄧艾に劣らぬ武略の持ち主として登場する。若くから鄧艾に従い、蜀漢との戦いで大いに活躍する姿が描かれている。
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 鄧艾伝 s:zh:三國志/卷28#鄧艾
脚注
- ^ a b c 『三国志』魏書 陳留王紀 s:zh:三國志/卷04#陳留王
- ^ 『三国志』鄧艾伝にてこの後、「恵唐亭侯の鄧忠」とも記述される。
鄧忠(とう ちゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:06 UTC 版)
「封神演義の登場人物一覧」の記事における「鄧忠(とう ちゅう)」の解説
※この「鄧忠(とう ちゅう)」の解説は、「封神演義の登場人物一覧」の解説の一部です。
「鄧忠(とう ちゅう)」を含む「封神演義の登場人物一覧」の記事については、「封神演義の登場人物一覧」の概要を参照ください。
- >> 「鄧忠」を含む用語の索引
- 鄧忠のページへのリンク