だいに‐みなまたびょう〔‐みなまたビヤウ〕【第二▽水×俣病】
読み方:だいにみなまたびょう
第二水俣病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 01:21 UTC 版)
第二水俣病(だいにみなまたびょう)とは、日本の化学工業会社である昭和電工(現・レゾナック・ホールディングス)の廃液に含まれる有機水銀汚染の食物連鎖で起きた水銀中毒、公害病である。第二次大戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である四大公害病の一つであり、1965年(昭和40年)に確認された[2]。
- ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1976年度撮影)
- ^ 『新潟水俣病のあらまし』 2020, p. 4.
- ^ https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/229550.pdf
- ^ a b c d 『新潟水俣病のあらまし』 2020, pp. 13–14.
- ^ 『新潟水俣病のあらまし』 2020, p. 11.
- ^ a b c 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」p.39
- ^ 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」p.35
- ^ 第一部 【企業情報】 第1 【企業の概況】昭和電工
- ^ 徳山事業所 | 事業紹介 | 昭和電工株式会社
- ^ a b 『新潟水俣病のあらまし』 2020, p. 12.
- ^ a b 『新潟水俣病のあらまし』 2020, p. 58.
- ^ a b c 新潟水俣病問題に係る懇談会 最終提言書 2008年3月21日新潟県ホームページ
- ^ 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」pp.41 - 42
- ^ 「水俣病とアセチレン系有機合成化学工業」pp.42 - 43
- ^ 『新潟水俣病のあらまし』 2020, p. 22.
- ^ 【判例ID】27422554 損害賠償請求併合事件 新潟地方裁判所 昭和46年9月29日判決。
- ^ “新潟水俣病 企業の責任認める判決”. NHK放送史. 2021年9月17日閲覧。
- 1 第二水俣病とは
- 2 第二水俣病の概要
- 3 参考文献
第二水俣病(阿賀野川水銀中毒)(新潟水俣病)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:41 UTC 版)
「公害病」の記事における「第二水俣病(阿賀野川水銀中毒)(新潟水俣病)」の解説
1964年(昭和39年)頃から新潟県阿賀野川流域で発生した奇病。熊本県水俣と同じく、有機水銀(メチル水銀)による水質汚染や底質汚染を原因とし、魚類の食物連鎖を通じて人の健康被害が生じた。
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第二水俣病(新潟水俣病)
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「阿賀野川」の記事における「第二水俣病(新潟水俣病)」の解説
詳細は「第二水俣病」を参照 阿賀野川は古来から清冽な水で流域に恵みを与えていた。だが、高度経済成長の際、工業廃水によって水質が汚染された。四大公害病の一つである第二水俣病(新潟水俣病)である。 事の起こりは1964年(昭和39年)、阿賀野川流域に原因不明の中枢神経疾患患者が多発したことから始まる。1965年(昭和40年)に発生が正式に確認されたが、症状が熊本県水俣市を中心に発生した水俣病に酷似していた。このため政府は科学技術庁に命じて1964年 - 1967年(昭和42年)までの3年間、特別研究を行って原因の究明を行った。その結果、政府は1968年(昭和43年)に、この水俣病様疾患の原因を「昭和電工鹿瀬工場から排出されたメチル水銀による有機水銀中毒」であるとの見解を発表した。即ち、水俣病と同じ疾患が阿賀野川流域でも発生したということである。 昭和電工鹿瀬工場は化学製品を生産する際の中間産物としてアセトアルデヒドを精製していた。このアセトアルデヒドを精製する際に触媒として無機水銀を使用するが、精製過程において猛毒であるメチル水銀が産生される。工場はこのメチル水銀を含む工場廃水を処理せずに阿賀野川に垂れ流していた。その結果食物連鎖の過程を経て魚介類に高濃度のメチル水銀が蓄えられ、それを食した流域住民が慢性水銀中毒を発症した。水俣病と全く同じ発症過程であった。 1965年の症例報告ののち、昭和電工は直ちに工場排水を停止するも時は既に遅く、新規患者は続々と発生してしまう。1970年(昭和45年)の段階で報告患者数は49人であった。患者およびその家族・遺族は昭和電工を相手取って損害賠償訴訟を起こし、1971年(昭和46年)9月の第一次新潟水俣病訴訟判決で原告勝訴の判決が下された。2002年(平成14年)時点において公害健康被害補償法に基づく新潟水俣病認定患者は690人に及ぶ。責任の所在は認められたが、患者の苦しみは今もなお続いている。 阿賀野川の水銀汚染によって鹿瀬から下流における魚介類の摂取は全面禁止となった。1970年の『公害白書』では阿賀野川の水質は常態に戻っていると報告されているが、科学的な証明が不確実であったため摂取規制は継続され、阿賀野川の漁業関係者は失業などの深刻な二次被害を受けた。こうした窮状を打開するため、1976年(昭和51年)には阿賀野川下流部の汚泥を浚渫によって除去する作業を開始し、同時期から「阿賀野川水銀汚染総合調査」が開始された。2年間の調査の結果、1978年(昭和53年)に調査結果がまとめられ、阿賀野川の土壌および魚介類における水銀濃度が国の定める暫定基準値以下であるとの結論が出された。この結果を受けて阿賀野川の魚介類摂取規制は解除された。 その後も継続的な調査が続けられているが、阿賀野川における水銀濃度は環境省の定める基準値(0.0005 mg/L 以下)を下回っており、水銀による汚染は収束している。
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