第二段階改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 09:05 UTC 版)
1954年春、第一段階が一定の効果を出すようになると、「改造」の第二段階へと移り、戦時中の中国での罪行を全て告白し、書き出すことが要求された。中国側は「告白したものには光明があり、隠した者には暗黒がある」と繰り返し指示し、全ての罪を書くように何度も書き直しをさせた。 軍階級や師団ごとの話し合いが行われるようになると、元下級兵士による元上官の罪が指摘され、次第に皆が逃げ場を失うようになった。 さらに、告白文を講堂の壇上で発表する「坦白(たんぱい)」段階へと進められた。第39師団機関銃中隊長であった宮崎弘が1000人の日本人捕虜を前にして戦時中の中国人虐殺、試し斬り、拷問、幼児殺しなどを涙を流して絶叫しながら告白すると、他の捕虜の「認罪」が進展する転換点となった。その後宮崎弘は、撫順管理所での学習活動などを行う自主運営委員会の委員長となった。 宮崎中隊に所属していた難波靖直(中帰連会員)は以下のように回想している。 宮崎が捕虜を残虐に殺すところも見ていた。 あれだけの人間がこれだけ変わるということに、私も驚いた。同じ人間だったら、自分自身もそこまで反省をし なきゃならんのじゃないかということを感じるようになった。あれが本物だと思ったんだよねぇ。人間ならそこまでやらんといかんのだろうというふうにね。(略)書くときは、直接自分がやったことではなくて、 見たことだけれども、その見たことも、結局被害者から みれば同じ加害者だという立場で書くべきだということで、みんな洗いざらいぜんぶ書いて、出した。 日本人捕虜の間では、「被害者にとっては命令されて実行した犯罪なら許せるということにはならない」という考え方が共有され、「加害の一端にかかわったという広義の加害責任をとるべきだと義務的に捉え」るようになっていった。亜細亜大学の石田隆至は「直接的な犯罪がないことをよかったと思わなかったことは、当時の認罪運動が相当強い同調圧力となっていたことを物語る」と指摘している。
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