高度成長からバブル経済へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:42 UTC 版)
「日本長期信用銀行」の記事における「高度成長からバブル経済へ」の解説
1955年(昭和30年)からの日本経済は高度経済成長期を迎えた。特に前半の高度成長を支えたのは鉄鋼・石油化学・合繊・自動車・家電・工作機械など製造業の設備投資で、産業構造の高度化が著しく促進された。長銀の貸出額でみると、1956年(昭和31年)3月末の貸出残高は1,039億円であったが、1962年(昭和37年)3月末には4,059億円と4倍に増加、平均伸び率25.7%に達する急成長を遂げた。 また、代理貸制度を1958年(昭和33年)には従来の地方銀行に加えて、相互銀行・信用金庫に拡大し、地方の長期資金供給の充実を図った。営業網は1956年(昭和31年)9月に本店を千代田区丸の内の東京ビルに移転。さらに1958年12月に名古屋、1959年(昭和34年)12月に福岡、1962年(昭和37年)3月に仙台、1962年9月に金沢、1964年(昭和39年)3月に高松、1966年(昭和41年)5月に広島に、それぞれ支店を開設して、国内ブロック店舗の整備を完了した。 資金調達面では、割引金融債「ワリチョー」や、利付金融債「リッチョー」、「リッチョーワイド」といった長期信用債券を携え、債券(5年物利付金融債、1年物割引金融債)の発行残高は1956年3月末の1,078億円から1962年3月末4,171億円へと貸出同様の伸びをみせた。債券の内訳では、1956年3月末の利付債と割引債の比率10対1が、1962年3月末には3対1と割引債の比重が高まった。 貸出面では1962年以降、高度経済成長期には産業金融の分野で一定の役割を果たしたが、重厚長大産業の資金調達が間接金融から直接金融へシフトするにつれ、4重点産業と重化学工業向けの比率が低下する。こうした中、1971年(昭和46年)~1989年まで頭取・会長を務めた杉浦敏介(1958年から取締役、1971年から1978年(昭和53年)は頭取を務め、1989年まで会長)の下、危うくなった存立基盤を補強するため、その他製造業・不動産・流通・サービス等、新興企業に対して積極的な融資を推進し、貸出先が多様化した。また1973年(昭和48年)、経営不振にあったリコー系の日本リースへの役員派遣をきっかけに同社を掌握、1983年(昭和58年)には長銀出身の社長が誕生する。同社は長銀の別働隊として不動産融資に注力し、同じくバブル崩壊後に不良債権を築き上げることになる。杉浦の19年間の頭取・会長在任期間に行員の福利厚生が充実した反面、本部企画部門を中心とする側近政治の弊害を招いたといわれる。
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