マッカーサーとアイゼンハワー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサーとアイゼンハワー」の解説
マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。アイゼンハワーは参謀総長副官としての公務面だけでなく、マッカーサーが、元愛人イザベルに和解金として15,000ドルを支払ったときには、同じ副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉と代理人となってイザベル側と接触するなど、公私両面でマッカーサーを支えている。 しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、「バターン・ギャング」のサザーランドやホイットニーのように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、「バターン・ギャング」の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった。アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーがリテラリー・ダイジェスト(英語版) という雑誌の記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ合衆国大統領選挙でルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり(#フィリピン生活)、アイゼンハワーはこの事件で「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している。 この後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。 ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは昼食の席を立った後に、記者団に対して「責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ」と不機嫌そうに語っている。
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