マッカーサーの危機
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサーの危機」の解説
「レイテ沖海戦」も参照 「レイテ島の戦い」も参照 その後のレイテ島の戦いでは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の司令官山下奉文の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍を撃滅しようという作戦だった。対するアメリカ軍は、海軍の指揮系統が分割され、主力の機動部隊第38任務部隊を擁する第3艦隊はニミッツの指揮下、主に真珠湾攻撃で損傷して修理された戦艦や巡洋艦が配備された第7艦隊がマッカーサーの指揮下となっており、この両艦隊は同じアメリカ海軍でありながら連携を欠いていた。レイテ湾に向けて進撃してくる日本軍艦隊に対して、第3艦隊司令官のハルゼーはあてにできないので、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイドは、単独で日本軍艦隊を迎え撃つべく、マッカーサーが旗艦として使用しているナッシュビルを艦隊に合流させてほしいと要請した。マッカーサーは応諾したが「私はこれまで大きな海戦に参加したことがないので、それを見るのを楽しみにしているのだ」と自分がナッシュビルに乗艦したまま日本軍との海戦を観戦するという条件をつけた。しかしキンケイドやマッカーサーの幕僚の猛反対もあって観戦は断念し、ナッシュビルはマッカーサーを下したのちジェシー・B・オルデンドルフ少将の指揮下で西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)をスリガオ海峡で迎え撃つこととなった。激しいスリガオ海峡海戦のすえ、西村艦隊は壊滅したが、次は主力の第一遊撃部隊(通称:栗田艦隊)が、激しい第38任務部隊による航空攻撃を受けつつもレイテ湾に接近してきた。その頃ハルゼーは小沢治三郎中将率いる第3艦隊の囮作戦にひっかかり、第3艦隊に引導を渡すべく追撃していたが、連携のまずさから第7艦隊のキンケイドはそのことを知らず、栗田艦隊は妨害を受けることなく無防備のサンベルナルジノ海峡を通過した。 マッカーサーはこの時ナッシュビルに幕僚らと乗艦していたが、栗田艦隊の接近を知るとマッカーサー司令部には絶望感が蔓延し、先任海軍参謀のレイ.ターバック大佐は「我々は弾丸も撃ち尽くしたも同然な状態にあり、魚雷もつかってしまい、燃料の残りは少なく、状況は絶望的である」と当日の日記に記している。マッカーサーはニミッツにハルゼーの引き返しを要請する電文を3回も打ち、ニミッツはマッカーサーの要請に応えてハルゼーに「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」という電文を打ったがハルゼーには届かず、最後にはニミッツがマッカーサーにハルゼーに直接連絡してほしいとお願いする始末であった。ここでも指揮権の不統一が大きな災いをまねくところであったが、栗田艦隊はその後サマール島沖でクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")と戦うと、レイテ湾を目の前にして引き返してしまったため、マッカーサーの危機は去った。その夜マッカーサーは幕僚と夕食を共にしたが、幕僚は自分らを危機に陥れたハルゼーに対する非難を始め、「大馬鹿野郎」や「あのろくでなしハルゼー」など罵ったが、それを聞いていたマッカーサーは激怒し握った拳でテーブルを叩くと大声で「ブル(ハルゼーのあだ名)にはもう構うな。彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と擁護している。 マッカーサーの苦境はなおも続いた。日本陸軍の富永恭次中将率いる第4航空軍が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行った。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領したタクロバン飛行場に第5空軍を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていたが、そこに富永は攻撃を集中した。マッカーサーがわざわざ地下壕を埋めさせた司令部兼住居はそのタクロバン飛行場近隣にあり、建物はタクロバン市街では大変目立つものであったため、第4航空軍の攻撃機がしばしば攻撃目標としたが、マッカーサーは敢えて避難することはしなかった。日本軍の爆弾がマッカーサー寝室の隣の部屋に命中したこともあったが、幸運にも不発弾であった。また低空飛行する日本軍機に向けて発射した76㎜高射砲の砲弾1発が、マッカーサーの寝室の壁をぶち抜いたあとソファの上に落ちてきたが、それも不発弾であった。また、軽爆撃機がマッカーサーが在室していた部屋に機銃掃射を加えてきて、うち2発がマッカーサーの頭上45cmにあった梁に命中したこともあった。マッカーサーが司令部幕僚を招集して作戦会議を開催した際にも、しばしば日本軍の爆弾が庭で爆発したり、急降下爆撃機が真っすぐ向かってくることもあって、副官のコートニー・ホイットニー少将らマッカーサーの幕僚は床に伏せたい気分にかられたが、マッカーサーが微動だにしなかったので、やむなくマッカーサーに忖度してやせ我慢を強いられている。日本軍はマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれて、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが、結局その好機を活かすことはできなかった。 このように、第4航空軍の奮闘もあって、少なくとも11月上旬までは、日本軍がレイテ島上の制空権を確保していた。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、10月27日の夕刻から払暁までの間に11回も日本軍機による攻撃があって、タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていたと記述され、第4航空軍の航空作戦を、太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間に渡り、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。と評している。また、富永は上空支援が不十分であったアメリカ軍の上陸拠点へも攻撃し、11月の第1週には、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かした。第4航空軍の空からの猛攻に苦戦を続ける状況を憂慮したトーマス・C・キンケイド中将は、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに求めたが、マッカーサーがその進言を聞き入れることはなかった。 マッカーサーの副官の1人であるチャールズ・ウィロビー准将は、戦後にこのときの苦境を振り返って、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「P-38」が27機も地上で撃破され、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発し、飛行場以外でもマッカーサーの司令部兼居宅やウォルター・クルーガー中将の司令部も爆撃されたと著書に記述しており、第4航空軍による航空攻撃と、連合艦隊によるレイテ湾突入作戦は、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったと称賛し、マッカーサーの軍が最大の危機に瀕したと回想している。マッカーサーも「切羽詰まった日本軍は、虎の子の大艦隊を繰り出して、レイテの侵入を撃退し、フィリピン防衛態勢を守り抜こうという一大博打に乗り出してきた。アメリカ軍部隊をレイテの海岸から追い落とそうという日本軍の決意は、実際に成功の一歩手前までいった」「豊田提督が立てた計画は、みごとな着想に基づいたすばらしく大きい規模のものだった」「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と自らの最大の危機を振り返っている。 その後、日本軍は多号作戦により、レイテ島に第26師団や第1師団などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていたオルモック湾への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した。
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