マッカーサーへの50万通の手紙とは? わかりやすく解説

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マッカーサーへの50万通の手紙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)

ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサーへの50万通の手紙」の解説

マッカーサーところに送られてくる日本の団体個人から寄せられ手紙全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部保存されていた。その手紙の一部内容袖井林二郎調査により明らかにされた。ただし手紙総数については、連合軍翻訳通信班ATIS)の資料ダグラス・マッカーサー記念所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙10万通と推定して合計50万通としているが、CIE集計によれば終戦から1946年5月末までに寄せられ手紙は4,600通に過ぎず合計して50万通には及ばない。また手紙宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなくGHQ各部局宛先とした陳情請願告発声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部 を宛先とした手紙相当数上っている。 マッカーサーGHQ当局への日本人投書きっかけは、1945年8月終戦直後東久邇宮稔彦王総理大臣国民向けて「私は国民諸君から直接手紙戴きたい嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい・・・一般国民皆様からも直接意見聞いて政治やっていく上の参考としたい」と新聞記事使って投書呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書並行してマッカーサーGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初マッカーサーGHQに届く手紙の数は少なく1945年末までは800足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣対す投書激増しピーク時一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーGHQの手紙も増え始め東久邇宮内閣早々に倒れると、日本政府殺到していた手紙マッカーサーGHQ送られるようになったマッカーサーGHQ手紙大量に届くような流れ作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民マッカーサーGHQ意向早々倒れ日本の内閣よりも、日本実質的な支配者であったマッカーサーGHQ頼りとすることとなったのであるマッカーサーGHQへの投書内容多岐に渡るが、未だ投書少なかった1945年10月投書内容について東京発UP電報じている。報道によれば「マ元帥への投書戦争犯罪人処罰配給制度改訂等、1ヶ月余りに300通」その内日本語書かれたものは100通」であり、「反軍国主義28通」「連合軍占領並びに元帥への賛意25通」から「節酒と禁酒の熱望2通」まで、内容おおまかに21通り分れていた。中でもGHQがもっと関心寄せた投書天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人投書』という資料名を付され極東国際軍事裁判国際検察局IPS)の重要資料として管理保管されており、1975年まで秘密文書扱であった昭和天皇人間宣言行った以降は、日本国民の間で天皇制対す関心高まり1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった投書分析したCIEよれば、天皇制存続廃止否定意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは「この様論争激し主題については、体制変革しようとしている方(天皇制廃止主張派)が体制受け入れる方(存続派)より盛んに主張する傾向がある」と冷静に分析しており、1946年2月天皇制是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論圧倒的に天皇制存続強かった手紙存続派の方が長文熱烈なものが多く中にはアメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢できない」や「陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてマッカーサー刺殺する」という過激なものもあった。 天皇制日本国憲法公布により一段落すると、もっとも多い手紙嘆願となり、当時時代相あらわした種々の嘆願なされたその内容は「英語を学びたい娘に就職斡旋してほしい」「村内もめごと解決してほしい」「アンゴラウサギの飼育に支援を」「国民体位維持上のため日本国民糸引納豆摂取奨励を」などと内容数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から復員本格化すると、その関連要望嘆願激増した1947年以降復員関連要望嘆願の手紙が全体90%にも達している。特にソ連によるシベリア抑留については、この頃より引き揚げ促進為に全国いくつも団体組織され団体抑留者の家族に対して「親よ、妻よ兄弟よ、起ち上がりましょう日本政府当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥人類愛縋り援助要請する他はありません。」などと組織的にマッカーサーに対して投書を行うよう指示しており、特に児童から大量投書が行われている。このような動き満州朝鮮半島取り残された元居留民家族でも行われており、福岡共同公文書館には大分県国民学校生徒からマッカーサー送られた「北鮮満州お父さんお母さんや妹や皆な1日でも早く早く内地へかへして下さいのみます」という投書展示されている。 また、外地進行していたBC級戦犯裁判被告受刑者家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息調査要請などの投書多く寄せられている。 従って、一部事実誤認あるように、GHQ一日に何百通と届く手紙マッカーサー個人へのファンレターだけではなく占領軍組織全体送られ日本人切実な陳情請願告発声明圧倒的だったが、ルシアス・D・クレイ英語版)が統治した西ドイツでは限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサー強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力みたいなものがあったという指摘もある。マッカーサー個人宛て送られていた手紙には、「マッカーサー元帥銅像つくりたい」「あなたの子供をうみたい(ただし原書存在せず)」「世界中主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大な解放者マッカーサー元帥閣下」と当時マッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼うかがわせるものもあり、他の多く権力者同様に自分への賛美賞賛好んだマッカーサーは、そのような手紙中心に気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後マッカーサー記念館保存されているが、前述通りその様手紙全体として少数であったマッカーサー送られてきた手紙をただ読むのではなく内容分析し世論民主化進行度測る手段一つとして重要視し占領政策進めていくうえでうまく活用している。

※この「マッカーサーへの50万通の手紙」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「マッカーサーへの50万通の手紙」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。

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