マッカーサー人気の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)
「ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサー人気の終焉」の解説
検閲の中枢を担ったCCDが1949年10月に廃止され、マッカーサーが更迭されて帰国する頃は既にGHQの検閲は有名無実化しており、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば『北海道新聞』などは、マッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の氏子になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう」と宗教を例にして、暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人のダレス大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」 や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」 などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。 帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「#日本人は12歳」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた。さらに社説で「マ元帥は米議会の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に一人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう」 と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民は、征服者であったマッカーサーにすり寄っていたことを恥じて、マッカーサー熱は一気に冷却化することとなった。 そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。
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