極東選手権競技大会の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 20:51 UTC 版)
「東亜競技大会」の記事における「極東選手権競技大会の消滅」の解説
東アジアには元々、フィリピン(当時はアメリカ合衆国植民地のフィリピン自治領[要リンク修正])の体育連盟会長であったエルウッド・ブラウンが中心となって設立した"極東体育協会"が主催する「極東選手権競技大会」が開催されていた。参加国はフィリピン、日本、中華民国(以下略称を中国)、タイ王国の他にも東南アジアの植民地(イギリス領東インド(イギリス領マラヤ)・オランダ領東インド・フランス領インドシナ)もこれに加わった。うち第1回大会から全大会出場していたのはフィリピン・日本・中国だけであり、事実上3カ国で極東協会を運営していたが、新規参加国を入れるには加盟国すべての了承が必要と極東協会憲章で定められていた。 その状況の中、満州を極東協会に加盟させようとした日本とそれを否定する中国とで対立することになり、結果1934年日本とフィリピンと2カ国間だけの決定により極東協会および選手権大会は消滅した。そこで日本とフィリピンは代わりに"東洋体育協会"を設立し、"東洋選手権競技大会"開催を画策し1938年第1回大会を東京で開催することを決めた。 ただ、この日本の一連の行動にはフィリピンや当の満州でさえ引いてしまう。満州については日本側の関係改善に向けた動きと大満州国体育連盟への組織改編により正式に東洋協会に加盟する。当時アメリカの植民地だったフィリピンは「東洋の平和」を目指して東洋協会を作ったことから憤りを感じ、また1944年アメリカからの完全独立が確約されていたところへその時期が更に早まるようアメリカ政府と交渉の最中、国際的観点から見て問題のある東洋大会に絡むことは今後の交渉で不利になると考えた。一方で日本は、1940年東京五輪招致を目指しており、東洋協会の存在は五輪招致に不利に働くとして協会設立当初は積極的な活動後押しを行えなかった。なお中国には協会参加勧誘の動きはあったものの具体的にオファーは出していなかった。 1936年7月東京五輪が正式に決まった後も日本国内での東洋大会に対する各スポーツ団体の温度差や中国の東洋協会加盟拒否、フィリピンの第1回大会不参加表明など開催に向け進展しなかった。これに関連して満州は東京五輪参加を要請したが日本側から政治的な問題に発展するとして却下されている。 そこへ、1937年7月日中戦争が勃発し、これらすべてが無となった。
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