外国勢力の援助拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)
「第一次インドシナ戦争」の記事における「外国勢力の援助拡大」の解説
1949年、現地の情勢悪化を確認したフランス軍参謀総長は、近い将来ベトミン軍は中国共産党から援助され北部ベトナム制圧は困難になるため、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてベトミン軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、ベトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利はできないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。 1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、10月に北隣に中国共産党の一党独裁国家の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中華人民共和国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始した。これによりベトミン軍は近代化され、正規軍の規模を以前より拡大し編成することが可能となった。しかし、南部デルタや農村のゲリラの間では以後も長く米仏製捕獲武器やベトミン製造武器が主流であった。一方アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。 1948年6月、フランスはコーチシナ共和国を廃して、ベトナム臨時中央政府を経て、1949年6月、南部に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させた。また、ラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつベトナム国の正当性を強調しようとした。 手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画だった。しかし現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。このため逐次に交代兵を利用し増員するのは不可能となり実質的に増援は来ない状態となった。 こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となったが、6月に朝鮮戦争が勃発すると米ソ中各国は朝鮮半島に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。
※この「外国勢力の援助拡大」の解説は、「第一次インドシナ戦争」の解説の一部です。
「外国勢力の援助拡大」を含む「第一次インドシナ戦争」の記事については、「第一次インドシナ戦争」の概要を参照ください。
- 外国勢力の援助拡大のページへのリンク