ベトミンの大攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)
「第一次インドシナ戦争」の記事における「ベトミンの大攻勢」の解説
1950年初頭、ベトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタとトンキンでは間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。フランス軍は小規模陣地群を撤収させ、ラオカイ、カオバン、ドンケ(英語版)、タトケ、ランソンに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくにカオバン攻防戦及び植民地道4号線の戦い(英語版)では「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。 9月、ベトミン軍は各地のフランス軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的部隊であった。フランス軍はマダガスカル、アフリカなどから増援部隊を送ったが、10月以降に国境地帯から逐次撤退した。12月17日、ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼任し、フランス軍兵力は125,000人となった。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍に一任していた。ベトミン軍は各所で攻勢に出て、1950年末、フランス軍はハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛するド・ラトル線(英語版)まで戦線を縮小した。 1951年、ベトミン軍は総攻撃を成功させ反攻段階に移る。1月、フランス軍はヴィンイエンでのヴィンイエンの戦い(英語版)で新兵器ナパーム弾投下で反撃した。ベトミン軍は、3月にはマオケの戦い(英語版)、4月にはナムディンと次々攻撃したが、5月にフランス軍はデイ川の戦い(英語版)で紅河デルタの勢力圏を維持した。 1951年前半期、ベトミン軍は正規戦の経験も訓練も不十分だったため都市部はまだ劣勢だった。北部ベトナムを押さえたベトミン軍だが、これ以後トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力再編成を行なった。10月、ライチャウ、ソンラを攻撃。11月から1952年2月にかけて激戦となったホアビンの戦い(英語版)で、フランス軍は要衝ホアビンを占領した。南ベトナムでは10月、サイゴンで大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。 1951年2月、インドシナ共産党の後身であるベトナム労働党が結成された。1951年3月3日、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(連越/ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けた。更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。一方、ベトナム国側は宗教団体私兵団4万人を基幹に国軍を編成、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まった。同年7月には土地改革計画を発表したが計画は貫徹されなかった。
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