ベトミンのインフラ攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:10 UTC 版)
「マスタードム作戦」の記事における「ベトミンのインフラ攻撃」の解説
9月23日からはサイゴンの大部分がフランスの支配下に置かれ、ベトミンのもとには一部地域のみ残された。その後、フランス軍部隊によってベトミンの排除が行われ、フランスはサイゴン全域を確保した。この際の戦闘で2名のフランス兵が戦死している。 24日、グレイシーが権限を逸脱して行動していると疑念を抱いていたマウントバッテンは、英印軍部隊は「重要地域」のみを担当し、サイゴン以外はフランス軍および日本軍に任せるようにと指示した。同時期には、第20師団において日本軍部隊の活動範囲の拡大が議論されていた。以後、日本軍部隊は治安維持に留まらない攻撃的な作戦にも投入されるようになる。日本兵らはフランス軍の指揮下に入ることを好まず、しばしばイギリス軍将校の指揮下で戦った。反抗的な日本軍指揮官も少なくなかったが、フランス軍主力の到着が遅延する中、グレイシーは日本軍に頼るほかなかった。 また、24日にはベトミンによるゼネストが始まり、サイゴンにおける水や電気の供給が停止した。25日にはサイゴン北部にて、300世帯以上のフランス系・ユーラシア系住民がベトミンやその他の民兵組織によって虐殺された。同日中にベトミンがサイゴン中央市場地区への攻撃を開始し、タンソンニャット飛行場でもこれに呼応した別グループによる攻撃が始まった。タンソンニャット飛行場への攻撃はグルカ兵部隊によって退けられ、双方の戦死者はイギリス兵1名、ベトミン兵6名であった。 その後の数日間、ベトミンとイギリス軍哨戒部隊の衝突が何度か発生し、ほとんどの場合はベトミン側が大きな損失を被った:70。当時ベトナムに進駐していたイギリス将兵は最近まで日本軍と戦っていた戦闘経験豊富な者ばかりで、またインド方面や北西辺境州(英語版)にて対ゲリラ作戦や治安任務に従事した経験がある者も多かった。一方、ベトミン兵は勇敢でこそあったものの、十分な軍事訓練を受けた者は少なかった。
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