予告ホームラン・極東遠征・移籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:38 UTC 版)
「ベーブ・ルース」の記事における「予告ホームラン・極東遠征・移籍」の解説
1929年には、ヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。一方でルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王のタイトルを獲得した。1930年シーズンの途中には、1921年以来初めてマウンドに上がり、完投勝利を挙げている。また、同年にヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となった。当時の背番号は打順を表し、ルースは日頃から3番打者を務めていたため、「3」が与えられた。 1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で、107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦し、4連勝でカブスを下した。 このシリーズの第3戦で、ルースは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。打席に立ったルースは外野フェンスを指差し、その後に放った打球は実際にバックスクリーン一直線の本塁打となった。37歳になっていたルースだが、ボールは490フィート (150 m)は飛んだのではないかといわれている。長年に渡って論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか?という疑問である。対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、3球目の投球モーションに移る前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。その後にたまたま、センターのスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にルースの動作を見逃しただけではないかと証言した。ホームランに関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。この予告ホームランについて、ルースは自伝の中で、「ブラッシュボールが来て頭にきていたのでよく覚えていないが、スタンドを指差すのはこのとき以外にも時々やって実際に本塁打を打った」と記している。なお、この本塁打はルースがワールドシリーズで放った最後のヒットとなった。 1933年にもルースは、打率.301、34本塁打、103打点の好成績を残し、リーグ最多の114四球を記録。この年、初めてのオールスターゲームがシカゴのコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号となる本塁打を飾る。このときに打った2ランホームランにより、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下した。 1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。これが投手としての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、そのすべてで勝ち投手となっている。ルースは通算成績で投手として94勝46敗という記録を残している。 1934年、打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレイした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦では、たったの2000人しか観客がいなかった。ルースはこの時点で、個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意はできていた。 この後、ルースはメジャーリーグ選抜軍の一員として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。選抜軍にはルースのほかにも、ゲーリッグ、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメス、アール・アベリル、チャーリー・ゲーリンジャーなどが参加していた。野球は既に日本でも人気を博しており、ルースも各地で歓迎を受けた。この極東遠征は日本における野球人気の形成に大きく寄与したと考えられており、1936年には日本初のプロ野球リーグが設立された。 この頃になると、ルースは自身の選手としての終わりが近づいていることを悟っていた。既に心はヤンキースの監督になることに決めており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかし、オーナーのルパートはマッカーシーを辞めさせる気はなく、逆にルースとマッカーシーとの間に大きな軋轢を残した。 ルパートはルースに、ヤンキース傘下のマイナーリーグチームのニューアーク・ベアーズ(英語版)の監督にならないか、というオファーを出し、ヤンキースの監督になるならマイナーで監督経験を積んでくるように言った。その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならなかったが、ちょうど引退を考えていたルースは検討することにした。しかし、ルースの妻であったクレア・メリット・ルースと彼のマネージャーはオファーを蹴るように、とのアドバイスを出す。そのため、選手としてもう1年ヤンキースでプレイするつもりでいたが、ヤンキースの年俸提示はわずか1ドルというものであり、これを受けてヤンキースを退団することを決めた。 ルースを雇うことを真剣に考えているチームは、フィラデルフィア・アスレチックスとデトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りることを検討していたが、後にルースが監督になれば実質的な覇権を握るのは彼の妻になると考え、撤回した。同時期にはタイガースも撤回し、ルパートは真剣にルースの引き取り手を探すことになる。
※この「予告ホームラン・極東遠征・移籍」の解説は、「ベーブ・ルース」の解説の一部です。
「予告ホームラン・極東遠征・移籍」を含む「ベーブ・ルース」の記事については、「ベーブ・ルース」の概要を参照ください。
- 予告ホームラン・極東遠征・移籍のページへのリンク