ヤンキース時代(1975年 - 1979年)
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移籍1年目の1975年は開幕3連敗を喫するなど4月は不調も、その後復調。23勝14敗、防御率2.58、いずれもリーグトップの328.0イニング、30完投、WHIP1.01を記録し、リーグ史上4人目の5年連続20勝を達成。ジム・パーマーと並んで2年連続の最多勝利を獲得し、サイ・ヤング賞の投票ではパーマーに次ぐ2位に入った。 1976年はリーグワーストの28被本塁打、117自責点ながら17勝を記録し、チームの地区優勝に貢献。カンザスシティ・ロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し1失点完投勝利。第4戦では3回途中5失点で敗戦投手となるが、チームは12年ぶりのリーグ優勝を果たす。レッズとのワールドシリーズでは第2戦に先発するが、トニー・ペレスにサヨナラ安打を浴びて敗戦投手となり、チームは4連敗で敗退した。 1977年は故障もあって9勝9敗、防御率4.71に終わる。チームは地区連覇を果たすが、ロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは登板なし。ドジャースとのワールドシリーズでは第2戦に先発するが3本塁打を浴びて3回途中5失点で敗戦投手。チームは第6戦でレジー・ジャクソンの第3打席連続本塁打もあって15年ぶりのワールドチャンピオンとなった。 1978年は開幕から不調が続き、故障離脱もあって7月まで3勝、防御率6.51だったが8月・9月で9勝、防御率2.23と持ち直し、12勝を挙げる。チームはレッドソックスとのワンゲームプレイオフを制して地区3連覇。3年連続の対戦となったロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で先発し、リードした状態で降板するがリリーフが打たれて勝敗付かず。ドジャースとのワールドシリーズでは第2戦に先発するが敗戦投手。第6戦では7回2失点の好投で勝利投手となり、チームのワールドシリーズ連覇に貢献した。 1979年は開幕5連敗を喫するなど2勝に終わり、同シーズンを最後に33歳の若さで現役を引退した。
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ヤンキース時代 (1980年–1984年)
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「ナッシュビル・サウンズ」の記事における「ヤンキース時代 (1980年–1984年)」の解説
1980年、サウンズは初めて提携先を代え、ニューヨーク・ヤンキースと提携を開始した。1980年から1984年、監督のスタンプ・メリルとジョニー・オーツおよびほとんどが未来のメジャーリーガーとなるスティーブ・バルボニ、ドン・マッティングリー、バック・ショーウォルター、オーティス・ニクソン、ウィリー・マギー、パット・タブラー、ダン・パスクァがナッシュビルをディヴィジョンの優勝または準優勝に導いた。 1980年のシーズン前半、サウンズは1.5試合差でメンフィス・チックスに負けていた。後半は準優勝チームに14試合差をつけて優勝した。ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦でナッシュビルは3対1でメンフィスに負けた。サザンリーグの9部門の記録がこのシーズンで塗り替えられ、投手陣は防御率、三振でリードし、スティーヴ・バルボニは得点、ホームラン、塁打でリードしていた。またグリア・スタジアムに計575,676名が訪れ、リーグの集客数の記録も塗り替えた。2007年現在、この記録は破られていない。2001年、1980年のサウンズは野球史上69番目に最高のマイナーリーグ・チームに選ばれた。 1981年4月16日、ニューヨーク・ヤンキースはエキシビション・ゲームでサウンズと対戦するためナッシュビルにやってきた。満員の17,318名が見守る中、10対1でヤンキースが勝利した。ヤンキースのオーナーのジョージ・スタインブレナー、コーチのヨギ・ベラの他、選手のレジー・ジャクソン、バッキー・デント、ルー・ピネラ、ボビー・マーサー、リッチ・ゴセージ、トミー・ジョン、ジョニー・オーツが出場した。シーズン後半、メンフィス・チックスに3連勝してサウンズはウエスタン・ディヴィジョン決勝戦に進んだ。しかし5戦のリーグ決勝戦で3対1でオーランド・ツインズに負けた。1981年にサウンズに所属していたドン・マッティングリーとウィリー・マギーは後にメジャーリーグに昇格した。1985年、マッティングリーはアメリカンリーグの、マギーはナショナルリーグの最優秀選手に選ばれた。 1982年、後半に優勝したナッシュビルはディヴィジョン・プレイオフでノックスビル・ブルージェイズと対戦した。ブルージェイズを征した後、サウンズはリーグ決勝戦に進出し、ジャクソンビル・サンズと対戦した。ナッシュビルは3対1でサンズを下し、サザンリーグ決勝戦に進出し、2度目のリーグ優勝となった。 1983年4月28日、ニューヨーク・ヤンキースはエキシビション試合で再度サウンズと対戦した。ニューヨークが4得点で9回裏までリードしていたが、2アウト5得点、13,641名が見守る中、5対4でサウンズが勝利した。ヤンキースの出場者はビリー・マーチン、ヨギ・ベラ、リッチ・ゴセージ、ケン・グリフィー・シニア、デーブ・ウィンフィールド、ルー・ピネラ、ウィリー・ランドルフ。シーズン中、監督のダグ・ホムクイストは前半の成績に失望し、選手に反則や失態に対し罰金を科した。打者を塁に出した投手への10ドルから、最大延長時間を過ぎた場合の100ドルまで幅広かった。 奮起したナッシュビルは後半優勝し、ウエスタン・ディヴィジョン決勝戦に進出した。しかしサウンズは最終5戦目に7対5でバーミングハム・バロンズに負け、このシーズンは終了した。6月21日、フロリダ州オーランドへの遠征中、エリック・ピーターソンおよびチームメイトのスコット・ブラッドリー、マイク・パグリアルーロ、バック・ショーウォルターが徒歩でホテルに帰った際、ピーターソンが車にはねられた。ピーターソンの体が震え始め、ブラッドリーはピーターソンの喉に指を突っ込んで舌を飲み込まないようにさせた。ピーターソンの意識は戻ったが、足の打撲、頭部の複数の傷などにより、シーズンの後半になってから復帰した。1983年、サザンリーグ・オールスター・ゲームが再度ナッシュビルで開催された。サウンズがこのイベントを主催しただけでなく、オールスター・チームのコンペも行なった。オールスターは3対2で勝利した。 1984年のシーズン前半、1試合差で2位であった。ダブルAとしての7年間、なぜか前半は1位になれなかった。シーズン後半、プレイオフでノックスビルを征した後、6シーズン連続でナッシュビルは優勝した。ディヴィジョンのプレイオフで再度ノックスビルと対戦したが、ノックスビルが勝利を収めてシーズンは終わった。1984年5月4日、ダブルヘッダーの2試合目の7回でコロンバス・アストロズと対戦し、ピッチャーのジム・デシェイズがチームで初めてノーヒットを達成した。フォアボール3回とデッドボールによりアストロズは1点獲得したが、5対1でサウンズが勝利し、完全試合に近かった。
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