ヤンキース不滅の5連覇
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「1949年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキース不滅の5連覇」の解説
ニューヨーク・ヤンキースはこの1949年から1953年まで連続でリーグ優勝及びワールドシリーズ制覇を果たし5連覇となった。ヤンキースは1936年から1939年まで4連覇したが、それを上回る歴代最高の連続優勝の記録となった。なおヤンキースはこの後に1960年から1964年まで5年連続リーグ優勝したがワールドシリーズではわずか2度の制覇に終わっている。 またこの年は16度目のリーグ優勝だったが、この1949年時点で他の球団の優勝回数はシカゴ・カブスが16回、ニューヨーク・ジャイアンツが15回、ボストン・ブレーブスが10回、セントルイス・カージナルスとフィラデルフィア・アスレチックスが9回、ブルックリン・ドジャースが8回、ボストン・レッドソックスとデトロイト・タイガースが7回であり、この年のリーグ優勝で歴代最多優勝回数に並んだことになる。1876年のナショナルリーグ最初の年にリーグ優勝したシカゴ・カブスはおよそ70年かけて1945年に16度目のリーグ優勝をしたが、ニューヨーク・ヤンキースは1921年からおよそ30年足らずで16度目のリーグ優勝を飾り、そして翌年には連続優勝で優勝回数トップとなり、しかもこの1949年から1964年までの16年間で途中わずか2年だけ優勝を逃しただけで14年間はずっとヤンキースのリーグ優勝であり、まさに球界の盟主と謳われる球団となった。 前年秋のヤンキース監督の就任を発表した際には「ステンゲルって、誰?」と揶揄される始末であったが、わずか1年後には故障者リストに延べ73人も出しながら、古参選手、右も左も分からない新人、峠を超えたベテラン、職人気質の選手などを巧みに使いこなしてヤンキースを優勝させたその手腕に高い評価が集まってきた。ヴィック・ラスキ(21勝)、アーリー・レイノルズ(17勝)、エド・ロパット(15勝)、ジョー・ページ(13勝及び救援投手として27セーブ)の投手陣、ジョー・ディマジオ、ハンク・バウアー(後のオリオールズ監督)、ジーン・ウッドリング、の外野陣、トミー・ヘンリック一塁手、ジェリー・コールマン二塁手、ボビー・ブラウン三塁手、フィル・リズート遊撃手の内野陣。これにジャイアンツから移ってきた往年の本塁打王ジョニー・マイズ、そして捕手はヨギ・ベラ。これらのメンバーを駆使してケーシー・ステンゲル監督はシーズン中の154試合に100通り近い先発オーダーを組み、打線の組み換えも頻繁であった。誰もが不動のオーダーと思っていた3番ヘンリック、4番ディマジオ、5番ベラのクリーンアップもわずか17試合しか組まなかった。投手分業制を編み出して、ジョー・ページを抑えの切り札としてレイノルズとロバット、ラスキの先発組を援護し、終盤にディマジオが戦列に復帰すると76試合で打率.346・打点67・本塁打14本を打って、レッドソックスを逆転した。この5連覇の時代のヤンキースは野手でヨギ・ベラ捕手とフィル・リズート遊撃手、投手ではラスキ、レイノルズ、ロバットが中心であった。リズートは1950年打率.327でリーグMVPとなり、守備面での活躍は大きく、ベラは1951年にリーグMVPとなり守りの要としてチームを引っ張ていた。右のラスキ(ヤンキースで通算120勝でシリーズ5勝)、レイノルズ(ヤンキースで通算131勝でシリーズ7勝)、左のロパット(ヤンキースで通算113勝でシリーズ4勝)が先発陣で文字通り5連覇の立役者であった。だがレフティ・ゴメスのような速球で勝負する大型投手、ルースやゲーリッグのような本塁打でファンを沸かせる大型打者が不在で、やがて投のホワイティ・フォード、打のミッキー・マントルとロジャー・マリスといった大型のスケールの大きいチームになる前の堅実な試合運びをするチーム編成であった。それだけにステンゲル監督の用兵や采配が重要で誰もが注目する時代であった。
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